自分史 戦争と移民=高良忠清=(18)

 ここでの仕事は朝七時から夜の十時、十一時ぐらいまでが当たり前だった。昭和三十五年(一九六〇年)に結婚し、妻も一緒に兄夫婦の御世話になりながら一男,一女が生まれた。
 妻は一世だが、二歳でブラジルに来たので二世同様、日伯両語を話せるので、彼女にはずいぶんポルトガル語を教えてもらった。兄の工場ではみんな沖縄語を話していたが、私はなるべくポルトガル語を使うようにした。
 いつまでも兄の世話になるわけには行かず、何時かは独立して自分で商売をしたいと思っていたからだ。ひとり立ちこうして兄の世話になりながら十二年あまりもたってから、やっと思い切って独立することにした。
 義弟が建材店を経営していたので私はトラックを買って砂、砂利、レンガの商売を始めた。まだ言葉も自由に話せず、単語を並べ、後は身振り手振りで建築現場に注文取りに行った。それでも、日本人なら信用できると何人かのお得意さんが出来るようになった。
 移民の御先輩方々が、この地で立派に信用される道を歩いてこられたお陰で、何処に行っても日本人として快く受け入れてもらった。毎日、朝は三時、四時ごろ起きて、二人の助手を連れて砂や砂利、そしてレンガの注文を積み込み、午後六時頃までには、トラック二、三台分は工事現場に直接配達できた。
 十年余りこうして働いているうちに、ブラジル語もだいぶん話せるようになり、長男も十四歳に成長、ぼつぼつ建材店を開業したいと義弟に相談したら、それは良いことだと力を貸してくれることになり、空き地を借りて店を立てて、三人の従業員と妻、そして学校の合間に手伝ってくれることにした子供と一緒に開店した。
 時は流れ、子供達も成長して店は日ごとに繁盛して行くうちに、ちょうどこの店の前の売りに出された土地を買い、下は店、上は住居に建物を新築してそちらに移った。
 長男も長女も結婚し、一応親の責任も果たせたし、孫達も生まれてからは店の責任も息子に渡した。やっと腰を休めながら、そして昨今、日系社会の沖縄県出身の一人として故郷へ思いを忘れることなく、小禄の文化と伝統を後生に繋げたいという志から、ブラジルの字小禄・田原字人会の会長としての任期中、わが故郷の伝統行事腰休(クシユクイ)を、沢山の同胞とともに二〇〇五年に催すことが出来ました。
 沖縄の字小禄の人達は、昔から主に農業と商業に携わってきました。そこで五穀豊穣、商売繁盛を祈願するため、弥勒を先頭に一年の収穫を終え、村人達が集まって歌ったり、踊ったりして楽しい一日を過ごすならわしが「腰休」(クシユクイ)なのです。
 おわりに私も人生の腰休(クシユクイ)をさせてもらう歳になって、古い戦前の移民の御先輩たちに思いを巡らせる時、ブラジルの言葉を教えてくれる人も無く、ポルトガル語を一字たりとも読むこともできないまま、異国で生活された苦難を想像して感銘するのです。
 四、五年も働いてお金を儲けてから錦を飾って、また故郷に帰る夢と希望を胸に古里を後にしたものの、配耕された耕地で現実には奴隷同様に扱われ、やっと独立して仕事を始めてからも、言葉にも不自由しながら茨の道を歩くことになったに違いない。
 その子供達にはブラジル教育をさせ、やっと親の片腕になれる頃には戦争が始まり、ブラジル人からも圧迫されることとなった厳しい道のりを察するとき、感動せずにはいられません。
 日本は戦争に敗れ、錦を飾って故郷へ帰る希望も失くして、ブラジルが永住の地となった。そのような汗と血と涙の結晶で、忍耐強く日系社会の基礎を築いてくださった御先輩移民の方々に敬意を表したいと思います。