《ブラジル》県連故郷巡り=「承前啓後」 ポルト・ヴェーリョとパウマス=(4)=「出られない人が残った」

一行に日本人墓地の由来を説明する田辺さん

一行に日本人墓地の由来を説明する田辺さん

 植民の実施要綱には「移民の義務」という項目があり、《入植と同時に仮所有権を与えるが、決定的な所有権は10年以内に5千本のゴム樹を植えつけてから与える》(『グヮポレ移民50年史』23頁)とある。
 ゴム生産のための植民地だとよく分かる。ところが主作のゴムは種から《収入を得るまで最低7年はかかる》もの。それまで陸稲、マンジョッカ、パイナップル、野菜などを植えて、当面の生活費を捻出するが《投資するばかりで、並大抵の努力ではゴム液採取まで管理することはできなかった》(同36頁)状態だった。
 その中でマラリアの犠牲者がバタバタと出て、どんどんと脱退者が続いた。「そんな状態なのに、どうして田辺家は移住地に残ったのですか?」と尋ねると、間髪を入れず「ここに残った人は携帯資金が少なかった人。つまり、出るに出られない人が残ったんです」と答えた。
 くわえて田辺さんは「親が残ってくれて良かったと僕は思っている。他に行ったら、今ここで出来ていることと同じことは、きっとできなかった。子供も大学にやれたし、十分な基盤を作ることが出来た」と頷いた。
 地獄をみた人のみが到達できる境地だ。
 どうやって「十分な基盤を作ったのか?」と聞くと、養鶏だった。《1960年、黒田倉造がコチア産業組合の養鶏研修会に参加したのをはじめ、入植者はニューハンプシャー種を導入し、養鶏を開始した》(同38頁)。入植6年目だ。
 当時は、川岸で地鶏の卵を集めて売るのが一般的だった。《雛が入っていたり、腐っていたりすることが多かった》《入植者が売る卵は新鮮であったため、飛ぶように売れた。養鶏業は植民地を支える営農事業に》という流れだ。
 田辺家では、子供も学校そっちのけで働いた。「12、13歳の頃に家が養鶏を始めた。僕らは学校も行かず、寝る時間を惜しんで働いた。寝るのは毎日2時間という生活を20年間続けた。生産、販売、資材購入、すべて自分でやらないとお金は残らない。40家族の使用人を雇っていた」と答えた。
 そのように生活がある程度安定してきたのは入植15年目、1970年頃だったという。銀行も融資してくれるようになったが、80年代に入っていくつかの経済プランが発表され、物価統制された。
 その中で、卵の値段も決められ、「とても採算のとれない値段にされ、僕らはあきらめざるをえなかった。あんな政策取られたら、農業は成り立たない。せっかく作った財産を食い潰す前に、町に出た」。そして不動産業を始めた。
 そんな1983年にBR364がアスファルト舗装され、世界が一気に開けた。サンパウロ州やパラナ州から若い農業者が次々に新しい開拓地を求めてやってくる時代になったのだ。
 「地の果て」が「フロンテイラ」になった。逆に今では、ポルト・ヴェーリョに残っている人は成功者だと感じさせる現実があった。(つづく、深沢正雪記者)