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『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(4)

桂植民地(Ⅲ)

桂植民地の廃屋 中村家(福澤一興氏提供)

桂植民地の廃屋 中村家(福澤一興氏提供)

 二艘のボートは、河面を切る様に走って行く。
 やがて岸の疎林の中に、小屋が一つ見えた。福澤さんによると、入植者がピンガを造っていた処らしい。とすると、陸地はすでに桂植民地の跡なのである。筆者は数十分前、イグアッペ文協で、昔、この辺りでピンガを造っていた西舘正和という老人に会っていた。
 文協の役員の中に、息子さんがおり、筆者の取材目的を知ると、一旦家に帰り、父親を連れてきてくれたのである。
 西舘老は1922(大11)年の生まれと、自己紹介をした。(91歳‥‥)と筆者は暗算しながら、わざわざ足を運んでくれたことに感謝した。
 老は少年期に家族移住をし、1933年、桂に入った。その年、入植20周年のフェスタがあったが、住民は25~30家族で、初年度からの人は居なかったという。つまり皆どこかへ移動してしまっていたのだ。実は彼らは、もともと農業者ではなく、カフェー園の生活や労働に辟易、逃げ出してきた──という経歴の持ち主であった。移動したのは、その所為もあったろうし、ここに魅力を感じなかったことにもよろう。
 老は「(自分は家庭の事情で)16の時から借用証を書いて(資金作りをし、その責任を負って)仕事をした」と、往事を述懐していた。
 ボートは、さらに行く。やがて速度を落として舳先を岸に向けた。前方にやや大きな建物が現れた。壁が落ち煉瓦が露出している。後で、これが桂植民地のかつての倉庫兼事務所だと知った。ボートは小さな船着き場に近づいた。複数の人影が見えた。果たして彼らは、我々が立ち入ることを許すだろうか?
 しかし、ひと足早く上がったカブラールさんが話すと、快く迎えてくれた。その上親切にも、トラトールに荷車をつけ我々を乗せ、植民地跡を案内してくれるという。
 トラトールが動き始めた。マットが続いていた。営農を放棄した後にできた再生林である。それ以外は何もない。トラト―ルが止まった。入植者が住んでいた家が一軒残っているという。我々は降りて雑草の中を、そちらへ歩いて行った。
 軒の下、地面に無数の空き瓶が放置してあり、それが泥に塗れていた。中に入った。そこは土間だった。一部が床のある部屋になっている。壁は板製で隙間が多く、光が射し込んでいる。壊れた雑多な家具が散らかっており、足の踏み場もない。廃屋そのものだった‥‥。
皆、口数少なく、外に出た。                                                          
 この植民地の主作物は最初は米で、しばらくは好調であった。市況が良かったことによる。が、それは1923年をピークに下降を続けた。
 一部の人はピンガ造りに転じた。原料のカナは良くできた。他にも種々試みた。が、長期的には住民は減り続けた。その最大の理由は、唯一の輸送・交通手段であった蒸気船の運航回数の減少である。これは打撃であったようだ。
 それでも西舘さん一家は1975年まで頑張った。が、結局イグアッペの町に出た。その時、中村、小野の二家族が残っていたという。筆者は後日、レジストロで、中村家の家人に会うことができた。彼女は言葉少なく、こう語った。
 「お爺さんの名は伊作、お父さんは忠雄、もち米をつくって船でイグアッペの町に運んでいました。私は1965年の生まれで、西舘さんの子供たちと小学校に通いました。11才の時、レジストロの親戚に預けられることになり(植民地を)出ました‥‥」
 それから31年後の2007年、中村家も遂に桂を去りレジストロに移った。我々が訪れた2013年から数えて、僅か6年前のことである。その時までランプ生活であったという。(小野家については、それを知る人に会えなかった)
 トラトールは先に進んだ。森の中の処々に小さな平地があり、牧柵が残っていた。畑の跡をパストに利用していたのだ。我々はリベイラ河の岸に戻った。筆者は、桂が、どうなっているかを、自分の目と足で確認できた。