ホーム | コラム | 特別寄稿 | 『日本文化』皇室編を読んで=サンパウロ市在住 作本登実子

『日本文化』皇室編を読んで=サンパウロ市在住 作本登実子

『日本文化』第5巻

『日本文化』第5巻

 私は毎週水曜日、授業の帰路、同じタクシー乗場で車に乗るので顔見知りになり言葉を交わすようになりました。
 ある日の運転手さんが、「将軍と天皇は同じなのか?」と聞かれ、ビックリしました。
 でも、数日前に『日本文化』第5巻「皇室編」を感慨無量な心境で読み、内容を覚えていました。ですので、私なりに噛み砕いて説明しましたら、とても喜んでもらい、「また次のときにゆっくりお話しましょう」と言って別れました。
 私達日系人は、世界に類のない皇室を戴いており、誇りをもって行動しなければならないと、親から常に厳しく教えられて来ました。
 初めて皇族がご来伯された1958年、日の丸の旗を高くかかげ、歓迎にはせ参じていた人達はみな両手をあげ、涙を流して万歳を叫びました。あの時の事は未だに忘れる事は出来ません。
 両親が学校を経営していた関係で、皇族が来伯なさるたびに、生徒に日の丸の手旗を持たせてお出迎えに行った事、目の前まで近づかれた時の感激は、今の若い方達にわかってもらえたらいいなあと思います。
 四大節の折には、講堂に教員・生徒が全員整列して、東方逢拝、一分間の黙祷、国歌斉唱。父は黒の背広に、白い手袋をはめ、教育勅語を朗々と読み上げました。その姿は凛々しいものでした。
 父は十五歳の時、郷原さんの構成家族の一員として渡伯し頑張っていたそうです。ですが、熱病が流行して父一人残して家族の四人は亡くなり、皆さんのお世話になりながら、同じ県人会の文尊植民地にせわになり、独学でポ語を勉強して皆さんの通訳もしていたそうです。
 郷原家の皆さんが熱病で亡くなった後、父の本名は新納なのでもどるよう進められたそうですけれど、一緒に苦労した郷原さんに申し訳ないといって、亡くなるまで郷原の姓でした。そして訪日した折、郷原さんの郷里に行き、お墓を建てたと聞いています。
 1915年、私の祖父母は渡伯しました。けれど、母方の祖母は「知らない国に孫達が行く事は許さない。自分が育てる」と宣言。母と二人、弟は日本に残り、それぞれ勉強し、母は福岡技藝学校を卒業しました。21歳の時、母方の祖母は亡くなり、母は弟二人を連れて渡伯したとの事です。
 初めは、弟達も頑張っていたとの事ですが、離れていた親に懐かずいろいろ苦労の連続で、母も迷ったそうです。ですが、サンパウロに来てフランス人の洋裁師と出合い、勉強しました。先生のお世話で、母は1932年に学校を開きました。皆さんの協力のおかげだったと、いつも感謝していました。
 学校の名前は「日伯実科女学校」と改め、日本語洋裁、料理、生花、手芸、音楽、専門家が務めて下さいました。
 日本語は長野師範卒の小林みさを先生、料理は佐藤はつえ先生。洋裁は力丸ウメ先生、礼法、洋裁の検定試験準備授業は校長の郷原ますえ先生が永年務めていらっしゃいました。
 講師として、開業医の講話などもあり、帰宅する時は別人のようだといわれる度、母の笑顔が綻んでいました。母は、ブラジル教育省からマンナネーリ章を頂き、連邦政府からもコメンダドール章、日本政府から勲五等藍綬褒章を頂きました。叙勲章の時は、訪日するようにとの事でした。これも皆、お父さんのおかげと叙勲は総領事館で請けました。
 先日、ある方から「父母の書いた物はありませんか」と言われ、あっさり「有りません」と答えました。はっと気づき、今は知っているものは私だけと思い、ペンを走らせています。
 これも『日本文化』皇室編を読んで、頭の中にいろいろなことが浮かんできたおかげです。
 冒頭に紹介したように、今はブラジル人も皇室に興味を持つ時代になりました。そうであれば、日系人として彼らにきちんと説明できないと恥ずかしいですよね。ぜひ『日本文化』を子や孫に買い与えたらどうでしょうか。

image_print