わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(11)
汽車は予定通り3月10日内原訓練所に到着し、安堵感を抱きながら第30當山中隊の日輪兵舎に旅装を解いた。
満州開拓史を参考に當山中隊拓友会 記録集より抜粋
注1 満蒙開拓青少年義勇軍とは
昭和7年3月、現在の中国東北地区に新しい国家として「満州国」が誕生しました。
この満州の地に日本民族の“植民地”という国家の政策的使命を担って「八絋一宇」、「五族協和」、「王道楽土」のスローガンのもとに昭和7年「満蒙開拓団」の送り出しが始まり、昭和13年から昭和20年の敗戦までの7年間に、約8万6千余りの少年たちがソ満国境に送り出されて、新天地の開拓と警備にあたらせられたわけです。
当時の日本の人口は飽和状態であり、特に農家の二、三男坊は新たな天地を求める必要があったわけです。高等小学校を卒業する15歳から18歳までの希望者を各都道府県で選抜して茨城県の内原訓練所に入所させ、出身県単位もしくは複数の県の混成で、中隊編成をなし、農学校の教育に軍隊制度を取り入れた集団組織で、特に「開拓の父」とも言われた「加藤寛治先生」の唱える「農本主義思想」を軸に、満州の大地に一つの村を造ってその地に骨を埋めるという運命共同体、同志的結合集団であったといえる。義勇軍の少年たちは、満州大陸での厳しい開拓営農に耐えられるための基礎訓練を受けたものです。その間日本国内での訓練においては、北海道始め各地に援農や護岸工事、ダム、溜池の構築等々が訓練実習の一環として行われた。
2~3ヶ月(長いものは1年)の基礎訓練を終えると満州大陸に渡り(渡満)、現地訓練所に入り広漠たる原野の中で自給自足の生活を営みながら、鍬持つ手に時には銃を執るという訓練の中で厳しい大陸の自然と闘い、ひたすら堪えて開拓訓練に邁進し、日本、現地を通じて3年間の訓練所生活が終ったら、義勇隊開拓団として新しい開拓地に入植して、自分たちの自らの手で全ての建設をやり、団経営から部落経営、そして個人経営へと移行し、満州大陸を第二の故郷として将来骨を埋める決意であり、大いなる希望を胸に組織された集団でありましたが、昭和20年8月の敗戦で「満州開拓」の夢は崩壊したのであります。
私達は、内原訓練所での各地(種)の体験実習をおえ、昭和19年3月、祖国を後に、民族協和・王道楽土建設の大望を抱いて、渡満し、厳しい大陸での生活にも慣れて、逞しく成長し、全ての面で着実な成果を納めていたのであります。ところが昭和20年8月9日、一方的なソ連の参戦、そして日本の敗戦により、大きな我々の満州開拓の夢は破れてしまいました。その後は筆舌に言い尽くせぬ過酷な苦労が始まったのであります。
ソ連軍の侵入で銃弾の犠牲となった拓友を始め、寒さと飢え、更に恐怖と闘いながらの逃避行、その間、當山中隊長を始め多くの拓友が祖国日本への帰国を夢見つつ帰らぬ人となったのであります。
同志拓友のことを思うとき深く胸に痛むものがあります。更に一身は勿論御家族をも犠牲にして御指導頂いた、亡き當山中隊長を始め諸先生方に対する御恩は決して忘れてはならないと思います。
注2 第30當山中隊
◎中隊名 佐賀・熊本・長崎・沖縄 第30中隊
指導員 中隊長 當山三次郎 沖縄県
教 学 空閑 永郎 熊本県
農 事 上村 勇 熊本
経理・教練 樽崎正幸 佐賀県
教 練 浜元勝美 長崎県
隊員 約230名余
訓練所 満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所(茨城県茨城郡下中妻村大字内原)