わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(13)

 4~5月と厳しい訓練所生活にも馴染み入所から3カ月、ひたすら農業実習と軍事教練に明け暮れていたが、5月にはアッツ島の日本軍守備隊が全滅し国民に大きなショックをあたえたばかりでなく、戦局は緊迫状態に陥っていた。皇国日本の軍隊も強烈な連合軍の勢力に抗しきれず、一層厳しさを増し空軍の制空権は奪われていた。日本軍戦局は後退の一途、その中でわが青少年義勇軍富山中隊は、国内食糧生産が急務とばかり勤労奉仕活動に挺進、7月には長崎、佐賀、熊本の出身県へそれぞれ1ヶ月所外訓練として幹部同伴で各々出身県への奉仕活動にでた。沖縄は3県に配分され、私は佐賀県に参加させられた。
 国内男子青年は、軍に応召され労力不足となり銃後の守りは婦女子ばかり、そのため訓練所に勤労奉仕の依頼が殺到したものと思われる。8月も続き11月までそれぞれ富山中隊は所外訓練の奉仕活動が続いた。7月 1ヶ月間、各農家に配属それぞれ農家の指示によって農作業に従事奉仕作業。熊本県、佐賀県、長崎県の各県出身者に沖縄県出身者は3等分して各県約75名当りがそれぞれの県で奉仕活動。
 8月 兵庫県淡路島で1ヶ月間、主として蓮根(ハス)の栽培と収穫作業。
 9月 海道十勝清水町 牛馬の飼育と冬期保存資料(サイロ)作り。
 10月 玉県鴻の巣国立農事試験場勤労奉仕作業。
 11月 長野県松本地区ダム建設工事勤労奉仕作業。
厳寒の満州に行っても農耕不可能を見越した処置であったであろうが、8月にはドイツ・イタリア・日本の3カ国枢軸国中のイタリアのムッソリーニ政権は連合軍に敗れ降伏してしまった。いよいよ戦局は激しさを増し制空権ばかりでなく制海権も奪われてしまい、私たちの渡満もどうなることやら不安視されていた。

2 渡 満
當山中隊の渡満に際しては下記人容と隊員数だった。
指導員 中隊長 當山三次郎
    教 練    浜本勝美
    庶務・経理  樽崎 正幸
    現地にて寮母  諸岡津ゆ
内訳: 佐賀県 47名  長崎県 51名
    熊本県 69名  沖縄県 54名
              計  221名

 隊員は将来一つの村を構成する一員のため、1ヵ年の訓練で得た構成隊員にふさわしくない隊員が数名除外されていた。
◎渡満行
 1944年(昭和19年)3月25日 内原訓練所出発(経路)内原→東京→伊勢→京都→下関(関釜連絡船→釜山→安東→ハルピン→一面坡1944年3月には内原訓練所入所して1ヵ年目になる。渡満こそ目的の訓練ながらいつの日かと待機していた。期せずして入所した2月末同日に内原駅渡満街路を渡ることになった。
 しかも時局柄全然予期しなかった東京見物を始め、京都の仏閣浄土に参拝、母国に別れを告げるべく法式の参拝だったようである。
 生まれ故郷に別れ第二の祖国建設に挑戦の目前それが当然の行為だったのかも知れない。そして無事に目的地に到着を祈願したのである。京都の蓮華王院本堂三十三間堂だとか左甚五郎や藤原義満将軍と鹿苑寺(どくおんじ)俗に金閣寺を参拝したことなどうすら覚えている。また歴史的に明声ある三重県宇治山田の伊勢神宮にも参拝したが、その内容と意義は知らなかった。但し汽車の窓から眺めた二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩やその海岸景色には興味深く見たことは鮮明に覚えている。こうして富山中隊(221人)一行は日本に別れを告げ九州の博多を目指して汽車に乗り込んだ。