わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(22)

 そこで姉が母の頭の血をふくために壕内にタオルを取りに行ったら、末子の光男(当時赤子)が泣いていたので連れだしてきたと云う。そのまま壕入口に銃をかまえて待つアメリカ兵たちに捕えられ、軍用車まで2キロ以上歩いたと云う。この自然洞窟壕には22家族67人が避難していたが、ほとんどが集団自決で命を絶った。
 その他に米須地域には少なくとも5~6ヶ所の自然壕があり、大きいのは300人以上、少なくとも4~50人がそれぞれの壕に避難していたと言われる。そしてカミントウ壕と同じ状態で自決か、米軍の投げ込んだ爆弾によって壕の中で死んでいった。
 その頃、日本軍敗残兵(逃亡兵)も何人かいて、彼らの悪巧みで壕を追い出された人たちもかなりいたとのことである。このカミントウ壕の入口でアメリカ兵の銃弾で射殺された日本兵もその1人だったに違いない。
 その翌々日の1945年6月23日、牛島満中将総司令官・長勇参謀長は、摩文仁軍司令部洞窟で自決し、日本軍の組織的戦いは終結したと伝えられている。その数日前の18日に米第10軍司令官バックナー中将が視察中真壁後方で戦死した。そのため米軍はいきり立って激戦を展開したとも伝えられている。
 こうして激戦地となった米須の戦争実態調査によると、戦没者は648人で住民1253人中52%にも及び、生存者は605人にとどまった。この戦没者の中の家族全滅は62家族にも達し、全家族の24%となり、部落内に空屋敷が至る所に見られるようになっていたのである。
 この事態は、摩文仁、大渡、米須、伊原、波平各集落も同じで、人口激減によって一つの村が成立たず、隣の真壁村と喜屋武村とが併合して一つの新しい三和村が翌1947年の4月に成立したのであった。
 住民は、県内疎開地あるいは捕虜収容所にばらばらに散っていたので、地域によっては占領軍の演習場とか基地に接収され、わが古里に戻れない事情もあった。米須部落の平坦な農耕地は真和志村民の避難所になっていたし、とにかく戦い破れ山河まで焼き尽くされ懐かしい面影はなく、総て変り果てていた。かつて自分の住んでいた家屋敷も赤土で埋り見る影もなく、その場所さえ判別つかない状態だった。
 私は、雨の如く吹き荒れる敵の弾丸で何度となく砂塵をかぶり、また壕で集団自決の血肉を浴びながらも生き延びてきた母に姉妹兄弟達6名が小さな農地を耕し、アメリカ軍の配給で命をつないでいる現実を目のあたりにして、どうしても早く働き口を探し暮らしの手助けをせねばならないことを考えた。
 そこで大連での多久島さんの養鶏場を思い出し、試行錯誤の果て200個の卵をあたためて孵化させる計画を立て、与儀農業試験場に問い合わせたが、保温器がなく願いは果せなかった。
 色々と工夫したが、戦争直後の焼野原の生活環境(家もない電気もない)ではとても無理だった。幸いに隣家には村の指導者山里栄治大先輩が住んでいたので、氏の推薦を得て与儀農事試験場に職を求め何回か出入りをしていた。その時の農事試験場々長は山里氏の知人金城金保氏であった。私が再三出入りしている事を知り、金城金保氏は、近いうちに豊見城村長堂に南部農林高校を開設するのでひと通りの農業を学ぶことを奨めた。
 両先輩の親心に感動し、母に話したところなんとかやってごらんとのことだった。時期はずれの入学試験を受けた。しかも、金城金保場長がこの学校の初代校長として就任し、1948年沖縄の南部地区に初めて農業高等学校が設立された。