わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(39)

 しかし、私にとってはまだブラジル一年生で生計も充分でないこれからという時代(1963年頃)だった。ところが先輩移民のこうした要請を蔑にすることは、特に青年隊移民で世話になって移住した自分にとって無礼は許されず、家族を説得し時々参加せざるを得ない立場となった。
 ところが時を同じくしてわが住宅の建設も始まり多忙を極めていた。しかし、やるからには徹底する習わしを躾けられているためか、回を重ねる毎に積極的に何かと先輩の心を捉えるようになった。
 同時に2世の指導者の仲宗根ペードロ市会議員や宮城ニユートン等と行動を共にしていると会員からの声援や協力心が増し成果につながり、やり甲斐を感ずるのであった。その心が会員の心をつかむのであろう。
 日中の多忙をさけて夜間の募金活動もよくあって、諍う場面も時たまあったが、邪魔者扱いされずにむしろ賛辞歓迎され、その主旨を理解してくれる会員が多かった。
 こうして、会員の理解ある協力と支援によって実現したのがうるま会館である。

 5 自宅建設 (現在の住宅)

 1963年末頃、3家族が分家し、それぞれフェイラ業をしていくにはどうしても都市地区で住宅が必要となる。家族10名にもなると住宅も小さくては無理。その思いで物色調査中に現住宅の物件が売りに出ていた。
 その場所は、サンパウロ行きのバスが1時間おきに往来しているし、毎度そのバスでサンパウロ市場まで乗り換えなしで買い物ができる事実から、交通の便利さを知っていた。そこで、この物件を求めることにしたのであった。
 家主はネルシン・フランコ・ロドリゲースというブラジル人で、1959年に建てた78平方メートルの小さな住宅があり、トイレは屋外にあった。屋敷は280平方メートルの広くはないが、先にのべたように往来するバスの大通り(AVENIDA)だけに将来性があり、気に入ったのであった。
 1963年9月3000コントスで月30コントスの100回の月賦で契約が成立し買い取ることが出来た。
 家は狭いが10名家族で2ヵ年間我慢窮屈な生活が続いたわけである。しかし、土地を買い資金不足には悩みながらも狭さにはたえられず、住宅建設が急務となり、その設計を依頼した。
 そして1965年7月工事を始めることになった。その設計は、商業サロン178平方米、住宅2階164平方米、地下63平方米で総面積は405平方米、かなりの広さであった。勿論手持資金では足りず借金でやりくりして、1966年10月に完成したのであった。
 家族(妹や弟達)の一致協力で来伯7年目、母の還暦の節目にも当たり落成と還暦祝を新築された一階サロンで催した。家族にとってこれが励みとなり絆となる絶好の機会を得たものであった。
 一階の商店用サロンは2つのサロンに分けてあるので、一方は車庫として利用することにし、他はフエイラで売り残ったものと併せて生活必需品を揃えた店舗を開くことにした。ところが家族はみな商売素人ばかりで、その上ブラジル語を話せるのは一人もいない。
 ちえみと一也は学校に行くしあてにならない。学校から帰宅以後に母の手伝いをしてやれば母は何とかやっていける。結局、本職はフエイラで店は副業と云うことで母が店をみることになった。