わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(43)

 そして資金面で一致結束できる見通しがようやく判明した。そこで3ヵ月後の9月臨時総会を召集し、資金調達の予備調査の結果が報告され、母県への代表派遣を正式に決定。その代表に山城勇を正式に決定した。
 私自身は決して喜んで引き受けるのではなく、事の重要性を自覚していながらも、既に述べた諸般の事情もあり、仕方なく引き受けるのであった。
 しかも、よく考えて見ると組織活動に目覚め活発に活動を始めてはいるが、その組織名もないばかりか、組織の規約もなく意志を統一した活動の感じがしないので、定款及び組織名の必要性を訴え改善を計った。
 以前に在伯沖縄協会には青年部が一時存在したが、2~3年で自然消滅してしまった経緯がある。でも青年隊独自の組織とあればそれなりに確固とした名称と規約(定款)がなければいけないことは当然であり、それを考案し、次回に審議決定することになった。
 但し名称はその場で発案発表し「在伯沖縄青年協会」とすることにしたが異論なく万場一致で決定した。こうして一つの団体としての「在伯沖縄青年協会」組織が形成され、その存在を一段と意識する上で最小限必要条件を確立したのである。
 1957年4月11日在伯沖縄青年協会は、沖縄から第一次ブラジル移住青年隊30名がサントスに上陸した記念すべき日から14年の歳月が過ぎた71年4月4日に青年隊303名の入植以来14年間の歩みを踏査して記録を作り、郷里の関係機関と留守家族に報告すべく青年隊の総力を結集して、私はその代表として派遣することを決定したのである。
 そして3ヶ月間の滞在日程を無事終えて私は元気で帰伯した。しからば、その目的と成果について、それから送り出すまでの活動状況を簡単に記して、代表派遣の経緯が如何なるものであったかを振り返ってみたい。

 在伯沖縄青年協会の設立

 戦後の全伯沖縄海外協会(後 在伯沖縄年協会)は灰燼に帰した故郷の戦災救援・復興運動を盛んに行った。当時の沖縄は米軍占領下にあって、特に農村の青年たちにとって働く場がなく、二男・三男対策が社会問題となっていた。
 そこで、沖縄青年連合会が試行錯誤の上「村おこし運動」の一環として沖縄産業開発協会を設立し、青年の技術訓練や精神修養を目的に6ヶ月間の集団生活を営み、ダム建設工事や土地改良など「働きながら学ぶ」をモットーに技術を磨き知識を深め「海外雄飛」を目指したのであった。
 1956年ブラジルではコチア青年や本土産業開発青年隊移民がはじまっていた。その事情調査の結果在伯沖縄協会が沖縄産業開発青年協会と提携し、1957年の4月11日第一次30名を始め2次・3次と98名の独身青年達を受け入れ、64年までに300余名が渡伯した。
 彼等青年隊移民は独自の組織活動のため1970年に在伯沖縄青年協会を結成した。10余年にわたり各人各様に移民生活を体験し独立、そして結婚し、一家を築いてきた。
 しかし彼達には「青年隊」という仲間意識は決して消え去るものではなかった。6ヶ月間の共同生活で鍛え磨かれた青年隊魂の発露がそう簡単に忘れ去るものではないようだ。
 強い仲間意識こそが代表派遣実現に結びついたものと思われるし、その結実が「在伯沖縄青年協会」であり、活動の原点だと云える。したがって1971年4月の代表派遣に関する諸活動や行事を前提として「在伯沖縄青年協会」と云う名称が必然的に誕生したのであった。