わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(55)

 小さな組織である青年隊グループによる自主的なスポーツ・文化活動が沖縄県人会にも影響を与え、文化センターとの対立的雰囲気を融和し和らげていく上で、大きな示唆を与えた、と言っても決して過言ではない。
 1975年6月の文化センター定期総会において、青年隊側からも是非執行部に入てもらいたいとの要望があり役員改選で山城勇が第3副理事長に選任された。

 また1975年2月の在伯沖縄県人会の定期総会において、青年隊から宮平守雄と私が理事に選任された。私は、文化センター副理事長の職責もあり固辞したが認められず、仕方なく受けて肩書きだけで実際には大した協力もできなかった。
 それでもセンターの役職は、1983年までの8年間副理事長の肩書きが続いていた。
 ところが県人会では永年会長の屋比久孟清氏が引退し徳田有次郎氏が後を継ぎ、会員からの信頼と期待を集めて懸命に活躍していた。
 その矢先の1981年6月17日同氏は急逝してしまった。戦後移民第1号の会長を失い至極残念な思いであった。

 そこで副会長の嘉陽相備が会長に昇格、第1副会長に仲本魁作、第2副会長に私が就任となった。
 戦前移民の先輩理事がまだまだ矍鑠としている中での人事構成とあって責任を感じ働かざるを得ない立場に立たされたのである。
 同時に事務局のベテラン宮城富次郎氏が高齢を理由に事務局長を引退してしまった。
 県人会活動の活性化には事務局の強化が不可欠の条件であるにもかかわらず、事務局長不在となれば尚一層のことである。

 しかし、県人会にとって常に資金難が理由となって職員の給与が低い。そのためか有能な職員が寄り付かないのが現状だ。
 それを改める必要がある。でも親睦団体における資金作りの困難さをしみじみと感ずるのであった。
 仕方なく資金カンパ芸能公演を資金造成を目的にして各芸能団体に協力をお願いする他ない。
 こうして多忙な県人会活動に没頭するには限界があり、文化センターの役職を1983年度末に辞退したのであった。

 青年隊の5年毎の周年行事として着伯20周の年に当たり私は、会長職に再び推挙された。
 1977年7月30日渡伯20周年記念式典、幸い文化センター大講堂で5年越しに瑞慶覧理事長を迎えて盛大に開催された。
 花城清安沖縄文化センター理事長と屋比久孟清在伯沖縄協会会長に感謝状の贈呈、及びユニークな賞として福島薫夫妻及び金城衛夫妻の2組の子福10名を育て上げた子宝賞が贈られた。
 これはブラジルならではの特別賞として珍妙な声があがった。
 そして、センター側を代表して花城清安氏と県人会側を代表して屋比久孟清両者が壇上に並び、青年隊渡伯20周年を慶祝して祝辞を述べて頂いた。
 この20周年祭のタイミングに県人会とセンターの両代表等を一堂に招待し、同席して対面し語り合う機会を提供したことは、両団体の和解慶節の機会となり、関係者各位から話題を呼んだ。
 これこそ最高の機会で拍手喝采の喜びであった。
 午後4時より津波久徳氏の開演のあいさつで民謡公演3時間余の歌と踊りの熱演で賑わった。