アンシェッタ監獄島で日本移民顕彰式=名誉回復、家族ら歓喜に咽ぶ=「ようやく心が晴れた」

披露された発電機を前に喜びを見せた関係者

披露された発電機を前に喜びを見せた関係者

 サンパウロ州北東海岸部ウバツーバ市のアンシェッタ監獄島に1946年から3年間収監された日本移民172人を称え、「日本移民顕彰式」が23日、同島の史料館で行われた。今では唯一の生存者となった日高徳一さん(92、宮崎県)や、元囚人の親族友人ら70人近くが遠方から駆けつけ、およそ70年越しとなる名誉回復に歓喜の涙を流して咽んだ。

唯一の生存者となった日高さん

唯一の生存者となった日高さん

 同島には、勝ち負け抗争で殺害事件に関与した実行犯10人もいたが、それ以外の大半は臣道連盟幹部や、踏絵を拒否しただけの勝ち組で無実の人々だった。模範囚として過ごし、野菜栽培や発電機の修理などで腕を見せ、看守の信頼を得るまでになった。
 勝ち負け抗争を描いたドキュメンタリー映画『闇の一日』(奥原マリオ純監督)が2012年に発表され、隠れた史実が広まり始めた。たまたま同島を調査していた生物学者・坂本メリーザさん(60、二世)が年初にそれを知り、「日本移民の日」制定に向け運動を始め、6月末には同市議会で全会一致により法案が可決された。それからこの式典準備が急ピッチで進められてきた。
 サンパウロ市からの一行が到着すると、佐藤デウシオ市長や副市長、市議、サミュエル・メシアス・オリベイラ郷土史家、ジゼリ・アレイアス・ノブレガ館長、浅井ネルソン日本人会会長らの歓迎を受け、船で島へ向かった。
 両国歌が斉唱された後、挨拶に立った佐藤市長は「歴史を掘起こし語り続けることによって、忘却されない遺産となる。島を訪問した人に日本移民の足跡を知ってもらえる」と顕彰式の意義を語り、「ここで生活し亡くなられた全ての方の為に祈りましょう」と語り、波音が響き渡るなか1分間の黙祷が捧げられた。「この式典は来年の移民110周年に向けた第一歩。皆で一致団結し、大祭典を開きたい」と協力を呼びかけた。
 出席した山内家、田中家、宇根家、日高家、松村家、池田家の親族友人に対して、顕彰プレートが贈呈された。故池田福男さんに代わってプレートを受取った友人の神原静子さん(86、二世)は、「本当に感激して何を話してよいのか分からない。『兄ちゃん』と呼び、実の兄のように慕っていた。福男さんも喜んで、今日ここに出席しているに違いない」と涙で言葉を詰まらせた。
 同史料館内に故山内房俊さんと故本家政穂さんが修理した発電機が披露されると拍手が沸いた。故宮坂四郎さんが死の間際まで文案を練ったそのプレートには、「島での長い夜の孤独な想いに光をもたらすという重要な役割をもつ装置」と刻まれ、日本移民の歴史的な証として展示される。
 ツッパンから訪れた房俊さんの息子・明さん(60、二世)は「日章旗の踏絵を固辞したがために無実の罪で収監された父だが、僕らには『こんな寛容な国はない。ブラジルのために貢献しなさい』といつも言っていた。もやもやしていたものが、ようやくぱっと晴れたような感じ。天からの贈物に感謝したい」と喜びを噛み締めた。
 式典後、週末に日本人囚人が相撲に興じ、太陽を拝んでいたというパウマス・ビーチでミサが執り行われ、参加者は先人に思いを馳せて思い思いの時を過ごした。

 

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 終戦当時、ポンペイアの叔父の家で池田一家と一つ屋根の下で暮らしていたという神原さん。家には東京ラジオを聞くための短波受信機があり、臣道連盟幹部も集ってきていたという。そんなある夜、政治警察が闖入し、11人を連行。その後、叔父以外はアンシェッタ島へ送られ、その中に福男さんも含まれていた。神原さんによれば、同島で棍棒により頭部を強打されたことが致命傷となり、搬送されたサンジョゼ・ドス・カンポス市内病院で福男さんは死亡。叔父らが訪れたときには、身包み剥がされ火葬もせずに、毛布一枚に包れて埋められたという。その後、交渉するも、掘起すことすらできず遺骨も取り戻せないままだという。式典では写真家だった福男さんが描いたとされる島の鉛筆画も同館へ寄贈された。無念の思いで亡くなった福男さんがようやく報われた瞬間だったのかも。
     ◎
 11人がマリリア警察の留置所に拘留された後、差し入れを持ってゆくためにマリリアまで通っていたという神原さん。そのなかで「ポンペイアでファルマシア(薬局)で成功した穢多が、警察署長に金銭を渡し、駅に着いた日本人を無差別に連行していた」という話を聞いたという。真偽はともかく、戦後の混乱に乗じて、様々な思惑が蠢いていたのかも。
     ◎
 日高徳一さんは島に到着し、暫らく景色を見つめたあと「何も変わっていないなあ」とぼそり。史料館に展示された日本人囚人の写真を見ては、一人一人を指差して懐かしそうに名前を呼んでいた。両手で杖をつきながらも健在。今でも息子が経営する自転車屋の一店舗で店頭に立っているほど。式典で「今は亡き171人に代わって感謝を申し上げたい」と挨拶し、無実で収監された仲間に思いを馳せていた。日高さんは「初めこそ『日本人は危険だ』と用心されたが、2、3カ月経ったら信用を得て、部屋に鍵もかけられなくなった。ようやくこの島で日本人がやったことを公に認めてくれた。それが何より嬉しい」と顔を綻ばせていた。