わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(67)

 1975年になって私は、初めて県人会本部理事に推挙され、それ以来1988年に至る13年間、理事・会計監査12年、副会長5年、そして県人会長の職責を務めることになったのである。

 その間ボランティア活動に徹し、必要に応じて1日3回も県人会本部を往来したこともあり、ほとんど毎日1度は県人会館に出向き、事務局業務督励や動静の報告受けていた。

 これがボランティアではあるが会長職の責務だと自分に言いきかせて務めたのであった。
 今にしてふり返り、弟の義雄、幸雄、光男、そして妻子たち、よくも耐え忍んでくれたものだと、改めて感を深くし、感謝の思いが滲み出てくるのである。

 2 子供たちの進路

 長男一也、日本文部省による国費留学生として、1989年4月4日出発。沖縄海外移住者子弟の県費留学制度は、1970年から始まり、当初は1人だった。

 日本への留学は少なくとも日本語の読み書き、会話がある程度理解せねばならないし、選考の規準でもある。
 従って正式にその規準を満たす候補者は失礼ながら少ない。
 更に国費留学生はその目的によっていろいろな専攻科目があり、日本語や英語能力が要求される。

 一也は医学だから英語と共に技術面も重要視されるとのことであった。
 私にとっては彼の親であり県人会長の立場からして県費留学生の選考対象から避けたい。

 そのため国費留学生としてなら大いに応募すべきと語っていた。幸いに彼自身総領事館でその内容を打診していたらしく、その制度を知っていた。
 そこで、国費と云えば東京のどこか国立大学か、或いは私立の名声ある大学を目ざして留学する方が得策だと思い、当時県出身代議士の大浜方栄氏に依頼することにした。

 それには青少年問題に詳しい知友末次一郎氏を通じて間接的に道を開けるように外間喜明氏に打診してもらったわけである。
 一也の現在の日本語で留学は決して期待出来そうにないので、人脈をつてに学部留学を目ざしたわけである。

 外間氏は現職の沖縄青年協会理事長であり、末次氏も青年隊との繋がりは古く、声をかければ意志が通ずる間柄である。

 とにかく学部を指定した留学生として直接それぞれの学部と折衝して入学することに決めるべく関係当局に当たることにしたのであった。
 大浜代議士に国際電話を入れたら本人不在で秘書の赤嶺さんにお願いした。
 出来るだけ文章で依頼せよとのことであった。