わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(75)

 こうした先人達の努力のお陰で県人移民の渡航は正常化され、それ以降の、いわゆる昭和初期移民がサントス=ジュキア沿線、カンポ・グランデ、サンパウロ州奥地、そしてパラナ州へと怒涛のように押し寄せたのである。

 さらに戦後においては、沖縄戦の戦災救援運動を展開してきた先輩たちが、移民受け入れを大きな目的にして、1953年3月に全伯沖縄海外協会=全伯沖縄協会、いわゆる戦後の沖縄県人会を結成して、移民受け入れ体制をブラジル連邦政府と交渉し、これを実現した。

 そのお蔭でわが沖縄の戦後移民は1万人以上の大多数となり、47都道府県日系人の1割が県系人の勢力に達した。
 それにつれて県人会家族会員も増加し続けた。

 したがって、1978年10月には沖縄県人会々館が当時の約2千万クルゼイロスの大金をかけ建坪約3千5百平方米の建設を成し遂げることができた。
 結局同年の移民70周年祭は、この会館落成式も兼ねて、4名の笠戸丸組生存者金城山戸・大城カメ・石原ウシ・宮平カメの皆さんの列席並びに、600人以上の母県の慶祝団を迎え、盛大な移民70周年祭典が繰り広げられた。
 この度の移民80周年祭典は、下記の通り開催されたのであるが、年と共に笠戸丸移民生存者は不在となり、祭典の形式も少々変らざるを得なくなった。

 翌日の記念式典に遥か母県から宮城宏光副知事と7名の関係者、また県議会から平良一男議長他8名、そして各市町村代表81名、県農組関係7名、教職員組合8名、産業開発青年協会12名、芸能公演団5名や報道取材班の他一般観光や親族訪問者など200人以上が母県から参加した。

 それだけに西銘県知事は代議士時代から何回も移民視察や慰問で来伯し、移民同胞と接触思いやり深い県知事として感謝し、こんな機会にブラジル国の勲章でも贈呈し感謝の意を表したい思いに駆り立てられた。

 そこで、先輩会長の花城・屋比久氏等と相談し、県人会から県知事並びに県議会議長他8名様にこれを授与した次第である。

 これらの方々のほとんどは、西銘知事はじめ冥土へ或いは高齢者となり、心寂しい限りだが懐かしく思い出される。

 更に県人会から功労者及び高齢者表彰などがあり、また母県より記念タオル80歳以上625名、テーブルクロス、90歳以上83名、それに歴代会長12名と初期移民(明治時代移民)16名の生存者に特別表彰、更に全会員に記念メダル4千個。

 ところがこれだけの記念品と表彰状にサーターアンダギーなどの郷土食品など、大量の別送品が空港税関で差止めとなって受け取れず、総領事館に受領依頼したが成果なく、とうとう式典で配布できそうもないままあきらめていた。

 ところが幸いにも、本番前日午前10時州知事表敬で宮城副知事を案内し、その場で別送品差止めの件を話したところ、州知事は早速空港係官に電話連絡し直ちに受け取り手続きが了解され、午後に受け取ることができたのである。