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特別寄稿=遠くて近きポルトガル=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画(京都大学図書館蔵、From Wikimedia Commons)

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画(京都大学図書館蔵、From Wikimedia Commons)

ポルト歴史地区(1996年、From Wikimedia Commons)

ポルト歴史地区(1996年、From Wikimedia Commons)

 ポルトガル共和国は日本の4分の1ほどの国土面積で、イベリア半島のスペイン国に隣り合わせ、大西洋に面した小国である。人口は1065万人(2015年)で東京都の人口、1370万(2017年)にも及ばない。

 世界で使用されている言語は6500あるといわれている。その中で、ポルトガル語を話す人口は世界で2億5千万人という。そのうち、ブラジルでは公用語となっているため81%(約2億人)、残りの5千万はポルトガルの旧植民地(アンゴラ、カーボ・ベルデ、サントメ・プリンシペ、赤道ギニアなどは話者人口80―95%)、もちろんポルトガルやブラジルは100%で全人口が使う言葉である。

 アジアでは東ティモールやマカオなどがあるが、話者人口はわずかである。

 ポルトガル語話者人口が最も多いブラジルに住み、ポルトガル語を話して生活していても、ポルトガルという国自体をなかなか身近に感じられない。

 理由はいくつか考えられる。日本生まれで日本育ち。戦後生まれの団塊の世代であり、メディアを通して送られてくるアメリカ文化の華やかさに憧れた世代、ヨーロッパよりもアメリカ、高等教育では英語習得一辺倒といった環境で育ち、イギリスやフランスはともかく、ポルトガルに興味を抱く機会は、筆者の場合に限って言えば、ほとんどなかった。

 ところが日本の歴史を遡ると、日本文化は異文化交流の中で育まれてきた。

 奈良・平安時代には遣隋使・遣唐使による中国文化の摂取。戦国時代に始まったポルトガル・スペインとの南蛮文化と称されるヨーロッパ文化の受容。その流れは、幕末から明治維新、戦後のアメリカ文化と、外国文化の受容の歴史が今日まで継続している。

 その中でも、日本の異文化交流の始まりは南蛮文化のポルトガルだったのだ。日本人が最初に出会ったヨーロッパ人はポルトガル人であった。

 ポルトガル人は種子島に漂着し、それ以来、イエズス会によるキリシタン布教とマラッカ・マカオを相手とする南蛮貿易(主に近畿から九州地方)において主要な役割を果たした。

 この時代に日本に入った文物とともにポルトガル語起源の名詞などが多く日本の日常の生活に定着しているのである。英語やフランス語など主に十九世紀以降に入った外来語が片仮名で表記するのに対し、ポルトガル語由来の外来語は漢字の当て字や平仮名で表記する名詞も多く、いかに日本文化に深く浸透したことか。

 ここでは、身近なポルトガル語由来の「日本語になった言葉」を拾い上げてみる。

 

▼日本が出会った最初の外国、ポルトガル

 

 13世紀末、1295年にマルコポーロが『東方見聞録』で日本という島国を「黄金の国ジパング」と書き、ヨーロッパに「ジパング」の存在が知られることになったが直接ヨーロッパ人との交流が始まるのは16世紀、ポルトガル人による種子島への鉄砲伝来からであった。

 鉄砲伝来に関わる歴史書『鉄炮記』によると、天文12年8月25日(1543年9月23日・ポルトガル側の記録では1542年とあり、年代については諸説ある)に、「シャム(現在のタイ王国)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあって種子島(鹿児島県)に」漂着した。今から475年前のことだった。

 当時の第一四代領主の種子島時堯氏(たねがしま・ときたか・うじ)はポルトガル商人から鉄砲2挺を高額で買い取り、刀鍛冶に研究を命じた。そのうちの一丁を薩摩藩の島津義久に献上した結果、各地に製造が広まっていった。

 特に織田信長は鉄砲を主力とする戦法で戦いを有利にした。また現在NHK大河ドラマ『直虎』が放映されているが、直虎(おとわ)の養子虎松こと後の直政の最期は銃弾を受けた創傷によるという。

 「薩摩軍が関が原合戦で徳川軍の中央を突破して撤退できたのはこの種子島鉄砲のお陰で、その時の先鋒大将井伊直正は被弾し、その二年後に亡くなったという。(磯田道史著『歴史の楽しみ方』)」

 鉄砲伝来が日本の戦法を大きく変えたのは史実である。

    ◎

 さて、話は種子島に漂着したポルトガル人に戻すと、その時の二人のポルトガル人が日本に来た最初のヨーロッパ人ということになる。彼らの名前はフランシスコ、キリシタ・ダ・モッタといった。日本人は前者に「牟良叔舎(フランシスコ)」、後者に「喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)」と漢字を当てた。この時通訳に当たった人物は乗組員の中国人、漢文の筆談をし、彼らの名前を聞いて、その音に漢字を当てた。

 

▼ポルトガル語に漢字を当てる?

 

 ポルトガル語は種子島に漂着して以来、1639年に江戸幕府によって遮断されるまでの百年近く、日本の言葉の中に数多く影響している。そして、漢字に変換されるとき、音に漢字を当てはめたり、全体的にその物質の特徴や漢語解釈などをもとにして、いわゆる「翻字」に変換されて存続している。

 例えば、キリスト教でいえば、キリシタン=切支丹、バテレン=伴天連(パードレから変じた)、イルマン=修道士(神弟の意)、クルス=九珠(十字架)。

 衣類では、カッパ=合羽、ジュバン=襦袢、ボタン=釦。ビロオド=天鶩絨(天鶩は中国語で白鳥、絨がビロード)、メイヤス=莫大小(ポルトガル語の靴下で、伸縮性があるので大小を問わ、ない、ということからこのような漢字が当てられ、他に目利安、女利安とも書かれる)

 食べ物では何といってもカステラ=蒸卵糕、カボチャ=南瓜、コンペイトゥ=金平糖、ザボン=朱欒、タバコ=煙草、天ぷら=天麩羅、バッテラ=鯖寿司(ポ語のバッテイラ・小舟が変じた)。

その他に、オルガン=風琴、ギヤマン=金剛石(ジアマンテのこと)チャルメラ =喇叭、ビイドロ¬¬=硝子、シャボン =石鹸、カルタ=歌留多、医師のカルテはドイツ語由来の診療録のこと)。

 地名では、京都の舞妓さんがいる町で有名な先斗町(ぼんとちょうはポ語のポント・先から変じた)。

 ちなみに当時のポルトガル・スペインとの交流の中で、日本人はこの二つの国を「南蛮人」、オランダ貿易の時はオランダ人を「紅毛人」と称したが、それは中国語の「東夷・西戎・北狄・南蛮(異民族のこと。とうい、せいじゅう、ほくてき、なんばん)」に由来している。

 この「南蛮」という言葉は現在でも、日本国中の大人から子供までが大好物の定番料理、チキン南蛮上げや鴨南蛮、鯵南蛮にカレー南蛮など、南蛮黒酢味のレシピの日常食として欠かせない。

 それではなぜスペイン語・フランス語・イタリア語などがポルトガル語ほどには残っていないのかというと、単に交流の歴史が短かったためではないかといわれている。

   ◎

 ポルトガルは、日本に最初に文明の科学技術である鉄砲をもたらしたが、精神面で影響を与えたのはキリスト教の伝来がある。

 きっかけとなったのは、薩摩藩の武士が誤って殺人を犯した事件であった。彼の名は「あんじろう」といった。藩にいては身を隠すことができないと悟ったあんじろうは、知り合いのポルトガル船の船長を頼ってポルトガルに渡り、フランシスコ・ザビエルに預けられた。

 ザビエルは、日本にはキリスト教が入っていないことを知り、あんじろうを連れ、二名の宣教師とともに鹿児島に上陸したのである。

 その後、ザビエルは平戸・京都・堺・山口・大分と布教し、キリスト教は九州を中心に広まり、キリシタン大名の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠等が、1582年にローマへ四人の使節団を送った。天正遣欧少年使節団である。

 日本語を話すポルトガル人神父メスキッタが通訳に加わり、イエズス会巡察使バリニヤニが率いられて長崎を出港した。

 一行は二年半後にリスボンに上陸してポルトガルからスペインに入り、マドリッドでスペイン王とポルトガル王を兼ねるフェリペ二世に大名からの日本語の書状を渡した。そして半年後に目的地のローマに到着した。

 少年使節は、武士の正装で大小の刀を差してローマ法王グレゴリオ十三世に拝謁した。8年5ヶ月にも及ぶ長旅をへて、ようやく日本に帰った。

 この使節団によってヨーロッパの人々に日本が知られることになり、帰国の際にグーテンベルグ西洋印刷機を持ち帰ったことで、国内の書物の活版印刷が初めて行わるようになった。それらは「キリシタン版」と呼ばれている。

 因みに、イエズス会によって全てポルトガル語で記述され、約3万2千語を収録するキリシタン版の一種「日葡辞典」が1603年から1604年にかけて長崎で発行された。原書名は “Vocabulario da Lingoa de Iapam com Adeclaração em Portugues” といい、「ポルトガル語で説明を付けた日本の言語の辞典」を意味する。

 これは、出版されたものとしては最も古い日本語ポルトガル語辞書であり、当時の日本語の語彙や発音を知る上で貴重な資料となっている。さらにこの項目には次のような解説がある。

 『日葡辞書』からは、室町時代から安土桃山時代における中世日本語の音韻体系、個々の語の発音・意味内容・用法、当時の動植物名、当時よく使用された語句、当時の生活風俗などを知ることができ、第一級の歴史的・文化的・言語学的資料である。

一例をあげると、

  • 「日本」の読み方には、「にほん(にふぉん)」、「にっぽん」、「じっぽん」
  • 「進退は(しんだい)」「人数は(にんじゅ)」「因縁は(いんえん)」「抜群は(ばっくん)」
  • 「ろりろり」とは、恐ろしくて落ち着かない様子を表す語だった。

 ポルトガル語部分を現代日本語に翻訳した『邦訳日葡辞書』が1980年に岩波書店より出版されたが絶版となっている。(ウィキペディア『日葡辞典』より)

 パラパラと、どこでも良い。『広辞苑』の頁を開いていみると、たいていそこには(日葡)という出典が示されている言葉が多いことが分かる。この『日葡辞典』から参考にされている訳だ。

 例えば、

  • 「つけいる(付け入る)」逃げるのを追いかけて、城などへ入り込ませる(日葡)
  • 「つけすまう」馬が人の乗るのを嫌がって、尻を横へ振り向ける(日葡)

――等々、辞書を引くことが楽しくなる。

 このように、ポルトガルと日本のかかわりの中から生まれた様々な言葉を知ると非常に興味深く、またごく身近な日常生活に密着していることがらだけに親しみがいっそう深く感じられる。日本人にとってポルトガルは、地理的には遠いが文化面でたいへん近い外国なのだ。

 いまでは英語圏の一部になったかのような英語漬けの学習環境の中で育った世代としては、第一番目のポルトガル語話者人口の多いブラジルに、日系移民が世界で最も多いということも併せて、そのつながりの深さを、つくづく考えさせられている。

 こうしてみてくると、付き合いの古いポルトガル語には漢字が当てられたことが分かった。それでは、今日、日本語をローマ字に転写することはどうだろう。

 かつて、日系移民がブラジルの税関や役所等で登録した本名は、現地ブラジルの役人が耳で聞いた音をローマ字にしているので、本来の漢字の氏名からは程遠く、時には気の毒なような転写になってしまった例も数多くあったようだ。20世紀初頭の話になる。

 

▼ヘボン式ローマ字って何?

 

 日本語表記で通用しない国や国民に対しては日本語をローマ字に転写しなければならいために、日本人はパスポート申請での氏名や、固有名詞、地名などを「ヘボン式ローマ字」を使って表す。

 それでは「ヘボン」って何? 人の名前?

 英語で「ローマ字」というときは、「ローマン・アルファベット(ラテンアルファベト)」という、古代ローマ帝国において用いられていた文字を指すが、日本人の言う「ローマ字」は日本語以外の国の人に分かってもらうために使う「日本語のラテン翻字」である。

 それではどうして「ヘボン式」なのか。

 江戸時代から幕末まで、江戸幕府は鎖国政策を固守し、唯一オランダと長崎貿易を通じて外交貿易関係を維持し、オランダ式ローマ字を用いて交流していた。

 しかし、オランダ式ローマ字は仮名と厳密に一対一対に対応していたわけではなかった。そして、幕末の1867年、来日していたアメリカ人が和英辞書『和英語林集成』を著し、この中で英語に準拠したローマ字を使用した。これは、仮名とローマ字を一対一で対応(例、富士=fuji)させた最初の方式である。

 ヘボン式ローマ字つづりの創始者の名前はアメリカ人宣教師・医師・語学者の、「ジェームス・カーティス・ヘボンという。この「ヘボン」という姓。英語の綴りは、かのハリウッド往年の名女優、オードリー・ヘプバーンの姓、「ヘプバーン」と同じである。

 しかし、当時の日本人の耳には「プ」という声帯を使わない英語特有発音の破裂音を聞き取れず「ヘボン」となったという。

 江戸時代末期から明治時代にかけて、通訳として名を残した仲濱萬次郎(通称・ジョン万次郎)は、現地アメリカで聞いた英語の発音をそのまま記述して英語辞典を作成したが、それを実際の英米人に聞かせると、十分意味が通じるという。このことから、今日の英語学習でも、「書く」より「聞かせる=リスニング」、そして聞いた音をそのまま繰り返し話す「シャドウーウィング」という英語習得トレーニングに採用されている。

 ラテン語に「タビューラ・ラーザ(tabula rasa)何も書かれていない石板、白板、白紙状態」という言葉があるが、「学習」してその道に「精通」するには、自国(自分の)の固定概念や先入観を持たず脳を「白紙状態」にして行わなければならない。特に言語学習に関しては、実際、それが一番の早道であると言われている。

 「とりあえず、相手の言葉に傾聴し、聞いた言葉を自分の字で書きうつす。辞書を引かず音読する。聞いてマネて話してみる」

 当時の最先端にいた通訳者たちは、これがほんとの語学上達術だということを、身をもって教えてくれているではないか。

 

 

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