県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第8回=少年使節が着物を披露した王宮

 

シントラ王宮の壮麗な広間の様子

シントラ王宮の壮麗な広間の様子

 3日目の9月19日午後、一行は王族や貴族が夏の3カ月間を過ごした有名な避暑地「シントラ」を訪ねた。海抜が海と一緒で蒸し暑いリスボンのすぐ近くに位置するが、標高が530メートルあるために涼しい。リオにおけるペトロポリスのような場所で、詩人バイロンが「エデンの園」と称賛した。
 ここもUNESCO世界遺産で、中でも「シントラ王宮」は14世紀にたてられた夏の離宮として有名だ。
 調べてみると、前述した天正遣欧少年使節4人は、1584年8月、ポルトガル副王のアルベルト枢機卿の招待をうけて、このシントラ王宮にも訪れた。『伊東マンショその生涯』(マンショを語る会編著、鉱脈社、2012年)には、《四人の少年は「地上の楽園」と呼ばれたシントラに移動し、宮殿で着物姿を披露》(33頁)とある。
 つまり、日本人が歴史上はじめて、着物姿を欧州で披露した場所だった。公式訪問だけあって、彼らは「国賓待遇」だったようだ。
 当時のブラガンサ家当主の母カタリーナは、日本の着物をいたく気に入り、使節団に衣装一式を良く見せてほしいと頼み込み、息子ドゥアルテ用に仕立てさせた。
 《翌朝カタリーナはドゥアルテにその着物を着せると、メスキータ神父に頼んで、宮殿内に日本人がもうひとりいると一行に伝えてもらいます。日本風の装束に身を包んだドゥアルテに日本人の一行はいささか驚いた様子で、カタリーナはそれを嬉しそうに眺めていました》(前掲書、127頁)。まさに日ポ交流史の1ページ目といえるエピソードだ。
 4人は現在のポルトガル、スペイン、イタリアにあたる60都市を訪れ、地図や絵画を持ち帰った。イエズス会宣教師が持ち込んだものや、使節団が持ち帰った品々が日本の画家たちに影響を与え「南蛮美術」として昇華され、安土桃山から江戸時代初期にかけて流行した。日本文化の一部になったのだ。
 そのブラガンサ家が後にブラジルに帝国を開く。1889年にブラジルが共和制になってブラガンサ家は政治権力を失う。今ではその子孫が県連日本祭りに顔を出すなど、かなり庶民的な存在になっている。
 一行は一時間ほど階段ばかりの王宮をガイドに連れられて歩いた。長崎を出発した少年使節団との関係にちなんで、1997年から長崎県大村市とシントラ市は姉妹都市提携をしている。

串間年純さん

串間年純さん

 一行の串間年純さん(としのり、68、熊本県)は「王宮を見て、昔の王様の生活空間はこんな感じだったんだとよく分かった」、妻・和子さん(68、佐賀県)も「台所の煙突の大きさ、高さに驚いた。あの迫力は実際に見て見ないと分からない。どれだけの煙がでたのか」と歴史的建造物に感心していた。
 山本郁子さん(76、熊本県)も「あの台所の立派さはすごかった。使用人の数もさぞかし多かったと思うわ」としみじみ語った。(つづく、深沢正雪記者)