県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第17回=独立の功労者たちの学び舎

伝統的なたたずまいのコインブラ大学の建物

伝統的なたたずまいのコインブラ大学の建物

 ブラジルが植民地時代に搾取された税金や黄金によって作られたエリート大学と当時の人類の英知の結晶である図書館…。ブラジルからの視点でみると、素直に感動できない、ちょっと複雑な感想をおぼえる場所だ。
 『ブラジル史』(アンドウ・ゼンパチ著、1983年、岩波書店)で調べてみると、こうあった。
《一八世紀の中ごろから、フランスの思想界を席巻した啓蒙思想はブラジルにも大きな影響を与えた。このころ、ミナス・ジェライスやバイーアからフランスやポルトガルやイギリスに留学する青年学徒が多くなり、彼の地で啓蒙思想に触れた若い知識人たちは、母国ブラジルを苦境に立たせているポルトガルの絶対王政と重商主義政策に対して鋭い批判の目を向けるようになった。そしてヨーロッパから帰国した者たちによって、フランスの啓蒙思想は進歩的な青年の間に広められていった》
 フランス絶対王政を批判し、三権分立、平等主義などを高々と掲げた「啓蒙主義」に影響を受けたブラジル人子弟が、ポルトガル王国からの独立を考えるのは当然の結末であろう。
 同じように本国(英国)から搾取されていたアメリカ植民地が戦争を起こして独立を果たした(1783年)すぐ後でもあり、同様の気運はブラジルでも高まっていた。
 独立運動「ミナスの陰謀」(1788~1789年)に関し、《この革命陰謀に参画した者は、フランスやポルトガルから返った学生を始めとし、詩人・軍人・聖職者などの知識人であった~》(前掲123頁)とある。当時ポルトガルにはこの大学しかなかったから、まさにここでフランス革命思想を学んだ。
 副学長はここの卒業生の代表的ブラジル人としてジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラダ・エ・シルヴァ(1763~1838年)を挙げた。サンパウロ州サントスに生まれ、同大学に学んで1800年には地質学部教授に就任し、1819年に帰伯した。その彼が、リスボン宮廷からの帰国要請に逆らうようペドロ摂政王子に求めた。
 連載冒頭で紹介したように、1807年、ナポレオンにリスボン侵攻される2日前に、ポルトガル宮廷1万5千人が船でブラジルへ逃げ出した。王を頂いたことで、ここはただの植民地から「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」(1815年―1822年)に格上げされた。逃げ出した当時の女王はマリア1世、摂政は息子ジョアン6世。女王が1816年に亡くなるとジョアン6世が皇帝に即位した。
 その間、イギリス軍がポルトガルからナポレオンの軍を追い出したので、本国からジョアン6世に帰還要請が出された。王位継承者ドン・ペドロ王子を「ブラジルの摂政」として残して、1821年にジョアン6世は宮廷ごと引き連れてリスボンへ帰国した。
 そのジョアン6世が本国で三権分立の新憲法を制定したことに、絶対王政信奉者だった息子ミゲル(ペドロの弟)が反乱を起こした。ジョアン6世は後継者が必要となり、ブラジルのペドロ王子を何度も呼び戻した。だが、もしペドロ王子が帰還してしまったら、ブラジルはただの植民地に逆戻りしてしまう…。
 それに対してボニファシオらが助言し、独立を支持するブラジル人らに後押しされて帰還を拒否し、1822年9月7日、ペドロはイピランガの丘でブラジル独立を宣言し、皇帝ペドロ1世を名乗った。「ブラジル帝国」(1822年―1889年)の誕生だ。
 その時にボニファシオが内務大臣、外務大臣を務め、実務を司った。まさにブラジル独立の大功労者だ。(つづく、深沢正雪記者)

 

□大耳小耳□関連コラム
     ◎
 故郷巡り連載にあるような経緯でブラジル独立が果たされた。それからわずか5年、1827年に現在のサンパウロ州立総合大学法学部の元となったサンパウロ法学アカデミー(Academia de Direito de S縊 Paulo)が創立された。もちろん、独立したばかりのブラジルを支える人材を育成するためだ。今年はなんと創立190周年という由緒ある教育機関だ。場所は現在と同じ、サンパウロ市セントロのサンフランシスコ広場。東洋人街の目と鼻の先だ。