回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(3)

 夜寝る時も、軍服のようなものを着たまま寝ます。これは、いつ起きなければいけないか分からないからです。
 話は変わりますが、日本人の兵隊さんが弱ってヒョロヒョロになり、傷ついた方も団へ入って来ました。興安嶺(こうあんれい)へ隠れて逃げてきたのでしょう。何日も食べず飲まずだったのだと思います。そして入ってくるなり、「ここは日本人の部落か?」と聞くので、「そうだ、日本人の部落だ。しっかりせよ」と言うと、バッタリ倒れた人もいました。
 一度は14~15人の団体で来た時があり、その時はそれぞれの家庭で分担して介抱し、皆が回復してから一緒に団を出て行くことになりました。一番先頭の隊長さんが皆にお礼を言って、長い軍刀を高く振りながら別れを惜しんで土壁の門を出て行った姿は、今でも目に、胸に、はっきりと残っています。
 こうして昔のことを書き始めると、何もかもがほんの20年位前のだったかのように、鮮明に新たなことが思い出されてきます。色々な目に遭いながらも、お陰さまで私たちは難を逃れてきました。
 ある時、私の母と兄嫁(クニャーダ)がチブスにかかりました。感染病なので隔離しなければならず、父が2人の看病をすることになりました。ある晩、兄嫁のお父さんが「家が焼かれ始めたから早く逃げなければ」と言いに来て、私たちは飛び起きました。その後すぐに、彼はお父さんのいる隔離室へ向かって走っていきました。
 するとお父さんはこう言いました。「この熱のある2人を連れて外へは行けない。自分たちは仕方ないから、お前たちは早く逃げなさい」。私たちは走って逃げました。逃げると言っても、団の外側は堀があり、次に高い土壁があるので、それを一生懸命かけのぼります。そこを越えるともう一つ堀があって、次が道になっており、そこから野原の方へ必死で走って行きました。
 かくれ場所があったのでそこへ行くと、何人もが逃げて来ていました。1人の妹は他の人と一緒に逃げてきたのか、後になってかくれ場所に来て一緒になりました。
 どれ位経ってからかは記憶にありませんが、しばらくして外を見に行きました。家は空を赤くして燃えていました。匪賊は家を焼いて、その明かりで良い物を盗っていくのです。大分火も弱った頃に、誰かが「もう心配いらないから戻って来なさい」と大きな声で叫んでくれました。
 安心して戻っていくと、土壁の入り口で私たちはお父さんに会いました。お父さんは2人に布団をかぶせ、2人はその布団を引きずって歩いていました。その時の嬉しかった事は、今も忘れられません。本当に人間は、全力を出したらすごいものですね。3人はまた、隔離室へ行きました。私はホッとしました。
 こうして私たちの家は焼かれてしまったので、今度は別の人の家でお世話になりました。あの晩、逃げずに家にいた人は、叩かれたり殴られたりしたそうです。後で聞いて、私はゾッとしました。この時も、ご先祖様が導いて下さったのだと思います。
 色々な危ない目に遭いながらも過ごしている内に、私たちにも南下の命令が下り、30里(百20キロ)離れた札蘭屯(ジャラントン)という所へ向かう事になりました。それも夜になってから、最前の人の煙草の灯を頼りに、長い列が黙々とついて行くのです。