県連故郷巡り ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第27回=三国の様々な歴史的な絆

サンパウロに帰りついて、ほっとした表情の下本夫妻

サンパウロに帰りついて、ほっとした表情の下本夫妻

 大武はブラジルでポ語を習得して帰朝。《その後、二十数年間引き続いて在本邦ブラジル公使館(今は大使館)に通訳官として勤務し、その寸暇を割いて有志者にポルトガル語を享受し、我が国最初の葡和辞典と和葡辞典を編纂出版した~》(332頁)。大武は1895年の日伯修好通商条約締結の裏方として活躍した。その条約により、正式に日伯の国交が開かれ、日本移民を導入する道につながった。
 一方、レオポルド親王はその後ブラガンサ家のつながりからオーストリアの海軍大佐となり、そこで余生を過ごした。《欧州の生活には最後までなじめなかった。ブラジル人との緊密な関係を保ち続けた。ウィーン郊外にある居城にはブラジルの写真や物が飾られていた》(ウィキペディ)とある。少し物悲しいブラジル王室の最後だ。
 二宮さんが指摘した三つ目の3国関係「第2次大戦中からポルトガルが中立国として、日本におけるブラジルの利益代弁国になっていた件」も重要だ。1942年1月にブラジル政府は枢軸国に対して国交断絶を宣言した。つまり日伯は直接の外交関係が亡くなった。だから中立国に「利益代弁国」になってもらい、そこを通してやり取りするしかなくなった。
 ブラジルにおける日本の利益代弁国はスペイン(後にスウェーデン)、日本におけるブラジルの利益代弁国はポルトガルが担った。そのおかげで、開戦直前に訪日して勉強していた二世らは終戦直後、帰伯する際、ポルトガルが代わりにパスポートを発行してブラジルに帰れるようにした。
 終戦直後、日本からのブラジル帰国1号は二世の杉本クララだった。彼女が1948年1月に帰って来た時もポルトガルの世話になっただろう。この状態は1952年9月12日に日伯通商協定が結ばれるまで続いた。これを受けて、同月29日に戦後初の日本国大使として君塚慎が着任した。二宮教授の言う通り、3国の歴史は様々な局面で交わっている。
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 最終日9月22日午前、第1グループはTAP89便でブラジルに向けて出発。夕方6時ごろ無事にグアルーリョス国際空港に到着した。
 空港でホッとした表情の下本八郎元州議(81、二世)に感想をきくと、「ポルトガルは35年前以来4回目。道路も良くなり、高い建物も建つようになった。ポルトガル人がブラジルに対して敬意を持つようになってきたのを感じる。あそこから独立したのだから、『親』のような存在だと思ってきた。今回の旅は日系人にとっても意味があるもの。3国関係を辿るような旅は初めて。来年のポルトガル人日本上陸475年の記念行事には、ブラジルからも積極的に参加したらいいね」と早くも期待を膨らませていた。(終わり、深沢正雪記者)