半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(2)=米軍の再上陸、雨の逃避行

フィリピンのルソン島リンガエン湾に進入する戦艦ペンシルベニア以下の米第7艦隊(By U.S. Navy photo 80-G-59525 [Public domain], via Wikimedia Commons)

フィリピンのルソン島リンガエン湾に進入する戦艦ペンシルベニア以下の米第7艦隊(By U.S. Navy photo 80-G-59525 [Public domain], via Wikimedia Commons)

 太平洋戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦は1941年12月8日に始まり、翌42年5月10日に制圧を終えた。
 フィリピン当初は45日で主要部を攻略できると判断され、担当部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。主力部隊は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領。
 しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー元帥はバターン半島に立てこもる作戦を取って粘り強く抵抗し、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。
 撤退するマッカーサー元帥はこのとき、「アイシャルリターン」(必ず戻ってくる)という有名な言葉を残した。
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 日本軍や軍属らは途中にあったフィリピン人の駄菓子屋などを襲い、奪ったお菓子を自分の子供に与えていた。友三郎さんは空腹で周囲の子がお菓子を美味しそうに食べる様子を見ながら父親を待っていた。
 翌朝に父が迎えにきた。日本兵に街の案内を頼まれ、手伝っていたという。日本軍がフィリピンを占領したという知らせを聞いた両親は、「しばらく帰国しなくても大丈夫だろう」と少し安心した様子だった。
 1942年12月、友三郎さんは6歳になった頃だ。日本人学校に通い始め、日本から送られた教材で日本式の教育を受けた。ダバオで生まれ育った半沢さんは当時を思い出し、「童謡の『さくらさくら』を唄わされても桜がわからなくて、いまいちピンと来なかったよ」と苦笑した。
 フィリピンには日本人向けの中学校がなかったため、帰国しなければならない。それを見越し、父は兄弟の分の日本国籍も登録していた。父からは帰国後のことを考え日本人の礼儀作法も厳しく教えられたそうだ。
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 4年生が始まる前の1944年10月に、マッカーサー元帥の言葉通り、米軍がミンダナオ島に再び上陸した。
 学校から帰った友三郎さんの前で、また両親が話し込んでいた。フィリピンには日本からの物資が届かず、日本軍は現地住人の助けを得て農業をするなど、現地で物資を調達していた。父も海軍の食糧配給部隊に手伝いを頼まれ、家族と離れることを相談していた。
 当時父は51歳だった。50歳以上の男性は兵役の義務はなかったが「少しでも日本のために役立つならやる」と覚悟を決めた様子だった。
 父が発った後、半沢さん家族は他所から避難した人から米軍の様子を聞き、砲弾の音がするたびに奥地へ逃げ続ける生活を送った。
 逃げるときに半沢さんは2歳になったばかりの千四郎をおんぶし、友栄は母と手をつないで行った。下の弟2人、八郎と久四郎はリュックを背負って歩いた。逃げる方向と雨季の前線が同じ向きだったので、逃避行中はほとんど雨だった。全身ずぶ濡れになりながら一日中歩いた。
 島の反対側に出て行く道を進んでいたときのこと。まるで祭りのような混雑の中、爆撃でやられた遺体を踏みつけて進んでいった。
 ある日本兵は「死んでも人の邪魔になるのか!」と遺体を蹴り飛ばし踏みつけていたと、苦々しく思い出す。(つづく、國分雪月記者)