アルゼンチンの柔道について=1906年からの深い絆=山本ファン・カルロス=(上)=嘉納治五郎とオリンピック

嘉納治五郎( [Public domain], via Wikimedia Commons)

嘉納治五郎( [Public domain], via Wikimedia Commons)

 【らぷらた報知1月11日付け】柔道は日本で130年前に創始され、現在は「世界のスポーツ」となり、日本文化の中でも1番世界に浸透したのものの一つとなった。例えば、世界柔道連盟の加盟国の数は、国際連合のそれを上回っている。
 この事はアルゼンチンでも言え、110年以上の歴史があり、日本から来たスポーツでは最も古くそして普及している。特に日系社会の人々は、柔道の発展と普及に非常に貢献した。それは、移民により、またその後子孫に受継がれ現在にいたっている。
 世界柔道連盟は、ローザンヌ(スイスの町で1951年)で創設した。アルゼンチンが欧州柔道連盟に加入したのが1951年、この欧州柔道連盟は1948年に発起したものだ。(日本が加入したのは1952年)。
 第1回柔道世界大会は、1956年日本で開催した。オリンピックの競技として始まったのは、東京オリンピック1964年からだ。日本は、柔道世界大会―オリンピック共に最高のメダル保持者として維持している。
 これは絶え間ない主導者の努力によってリーダーを保っているのだ。スポーツ人口は減少しているのにも関わらず、ブラジルやフランス等の強豪にも優っている。
 日本の努力はスポーツの維持する為にやっているのでは無く、柔道の精神には、武道に対する道義心が根源にある。それはただ単なる格闘スポーツとならない為にも必要だ。
 単なる討論には入らず、柔道は武道(日本の護身術)の礼儀つまり基本的には相手に対する尊敬の念で始まり、(礼とは単に挨拶をするのでは無く相手を尊敬する事を態度で現す)これは武道から来ており、他の闘技と根本的に違うのだ。
 またもう一つ重要な事は、武道(日本の護身術)が他の護身術と基本的に違うのは、アジアかどうかと言うのでは無く、武道には基本に流れる歴史や文化の反映として、当時の日本が他とは違う独自の道を歩んで来た事に由来する。(どれが優れていると言う価値の判断をするのでは無い)
 という訳で、柔道で教えているのは、ただ闘技のテクニックを教えているのでは無く、価値を導く人格成長、つまり嘉納治五郎が述べた”柔道の哲学と美学を2つに要約するならば、精力増強( 体力と思考力を効率良く使う)また自他共栄(共に福祉)となる。
 個人的には、私は日系の柔道のインストラクターとして、これは義務であり一つの価値が有るのではないかと思う、これはどの日系人も同じであり、武道を導く事は、この価値を理解し伝える能力が、我々日系人には有るのではないかと考える。

▼オリンピックと柔道:

 皆さんも知っています様に、次回のオリンピックは2020年東京で開催する東京オリンピック2020だ。(JJOO TOKYO 2020)東京で開催する2回目のオリンピックとなる。
 1回目は、1964年第18回オリンピック、1964年10月10日から24日迄続いた。
 1964年オリンピック大会は、世界が注目する日本にとって第2次世界大戦で荒れ果てた日本復帰と先進国再出発のシンボルと言う重要な意味があった。
 1964年は日本にとって大きな変革のあった年だが、その年より国際経済援助機構(世界の裕福な国のクラブ)の一員となった。この年シンポルとなった重要な出来事、例えば最初にひかり号が走った東京、名古屋、大阪を結んだ東海道新幹線の開通、オリンピック大会の為の他の交通開発と共に行われた。
 政府は、この東京オリンピック2020を文化とテクノロジーでショーウィンドウを飾る様な歴史上記録に残す新しい日本を期待している。
 これは余り人に知られていない事だが、オリンピック大会と柔道には深い繋がりがある。主に柔道の創始者・嘉納治五郎(1860―1938)についてだ。
 思い出して欲しい。柔道は嘉納治五郎によって1882年に創られた。ただの22歳の青年が各種の柔術を教わり、新しい型の柔道を短期間に講道館を学校として創りあげた。柔道は、日本に普及しただけでなく世界の大陸へも広がったのだ。
 もう一つ別に、創始者嘉納治五郎は、教育者としても大家である。現在も教育の父としても有名で多数の教育機関でも講義を開いているし、教育機関の創始や指導そして教育省の役職も受け持っている。
 1909年国際オリンピック委員会(COI)の第1回アジア代表として1938年死没する迄代表責任者として務めた。数多くのオリンピック大会や国際オリンピック委員会で日本代表として参加した。1936年ベルリン国際オリンピック委員会では、嘉納の運動により1940年東京オリンピック大会開催が決議されたが、第2次世界大戦勃発により、仕切り直した。そして1938年エジプト国際オリンピック委員会総会後、帰国の途中洋上で帰らぬ人となった。
 この様な理由により1964年は、嘉納が準備した1940年オリンピック大会を取り戻す大会となり、柔道は1964年東京オリンピック大会において、四つの階級で男性の部門だけで行われた。最後のオリンピック大会では、男性女性と七つの階級で行われている、そして2020年東京オリンピック大会では、男女混合チームで三つの階級が継ぎ足された。
 1964年東京オリンピック大会では、先にも述べた様四つの階級、軽量級69キロ迄、中量級80キロ迄、重量級80キロ迄そして無差別級となる。
 日本は、四階級のうち三階級の金を制覇した。最終の重量級の試合では巨大なアントン・へーシングに惜敗した日本の代表選手・神永昭夫(1936―1993、国内で三回の無差別級優勝者)この試合で家元である日本は非常に苦悩した。
 しかしへーシングが勝つ事により、柔道の普及に活動した西洋の柔道家にとっては、希望の光を見い出す事が出来、またこれが1972年ミュンヘンオリンピック大会への参加決定に影響した。
 もし日本が全階級制覇した場合、柔道は単に日本だけのスポーツになっていたかもしれない。しかし別の観点から見ると、日本が負けた事により日本の柔道家に誇りを取り返す為にも良い刺激を与え、また日本が以前から施行していた練習の改良の役にも立ったはずだ。(つづく)