半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(4)=死と隣り合わせの逃避行

フィリピンの戦いにおける日本軍の銀輪部隊(By Japanese military personnel, via Wikimedia Commons)

フィリピンの戦いにおける日本軍の銀輪部隊(By Japanese military personnel, via Wikimedia Commons)

 半沢さんはおじさんのもとに戻り、母親の状態と同行できないことを伝え、再び小屋に戻った。昼頃におじさんが小屋に顔を出し、母親を診ていた。
 母がこのまま死ぬのではという不安に耐えられず、半沢さんが泣いていると、突然母が上体を起こし、「ご飯作らな!」と半沢さんを叱り飛ばした。
 唖然とする半沢さんの前で、また眠るように倒れ、鼾をかくと静かになった。半沢さんは母の体を揺すって目を覚ませようとしたが、もう反応が返ってくることはなかった。
 1945年7月18日だった――。
 半沢さんは母親に言われたとおり、兄弟のご飯を用意した。高橋さんがいたものの、これからどうしていけばいいかわからず途方に暮れた。
 次の日の夕方におじさんがまた戻ってきて、母親を埋めた。その反対側に砲弾で死んだ兵隊を埋めた。
 その2日後、おじさんと一緒に次の休憩地を探し森の中の下り坂を歩いていた。3、4メートルほどの高さの洞窟を見つけ、兄弟と高橋一家の全員が洞窟に荷物を運んだ。その後、炊いたご飯が入った鍋を運び忘れたことに気付き、友三郎さんと弟の八郎、高橋さん家の長男と小屋に戻った。
 途中で小屋の前でサルが騒いでいることに気付いた。近くにテントを建てた米兵がサル撃ちをして遊んでいるようだった。
 帰るわけにも行かず、隠れて見ていると高橋の長男が「帰る」と言い出した。友三郎さん達は長男を止めず、そのままサル撃ちが終わるのを待っていた。
 高橋の長男は叫びながら逃げ始め、大人たちがドタドタと追いかけていく音が聞こえた。
 長男は洞窟に逃げこみ、米兵がその中に威嚇射撃した。驚いた千四郎は大きな声をあげて泣き始め、射撃が止まった。日本語を喋れる日系米国人の兵が、「捕虜として収容所に連れて行く」ということを語りかけ、全員洞窟を出た。
 その一行が小屋の場所まで戻ってきた。長男が半沢さんの場所を喋ったらしい。
 半沢さんたちは米兵におびえ、大きな木の根の地面に顔をつけ、縮こまって隠れた。草の隙間から半沢さん達を探し回る米兵の足が見えた。
 高橋の母親が「出て来い」と叫んでいたが、「米兵に捕まったら、道に並べられて戦車に轢かれるとか皆殺しにされる」と聞いていたため、「出るもんか」と頑なに隠れ続けたそうだ。
 米兵らが去った後も隠れ続け、夕方になった頃に八郎と洞窟に戻った。残っていた荷物を集め、リュックに入れておじさんの中継地点を目指し歩き始めた。
 夜暗い中進んでいくと、竹やぶの向こうに大きい体格の人々が見えた。話し声を聞いても理解できない。
 竹やぶのそばの橋の前にはテントと機関銃が設置されていた。銃口は橋の向こう側(渡った先)に向けられていた。おじさんの中継地点は橋を渡った先だ。
 しかし、機関銃の側にいた番兵がこっちを向き、手招きしていた。真っ暗で敵か味方かわからない。(つづく、國分雪月記者)