どこから来たの=大門千夏=(34)

 これは我が孫だけに限ったことではない。何処の赤ん坊も同じなのだ。
 命の誕生が単なる物質の組み合わせだけでこの世に誕生したとは思えない。何かとてつもない力強い意思が働いて渦巻く巨大なエネルギーに守られて深遠なる世界から来たに違いない。それでなくて如何して此れだけの智恵に満ちているのだろうか。
 小さな体、言葉も話せないのに周りの大人たちに夢、希望、喜び、未来という大きな贈り物をし、笑うようになると笑顔は優しさ、愛しさ、安堵、喜び、思いやりを届けている。
 「子供は三歳までに一生分の親孝行をする」と言うけど、やっとこの年になって言葉の意味がしみじみと判ってきた。
 自分もかつてこのような幸せを回りの人々に配ったのであろうか、一生分の親孝行をしてきたのであろうか、今となっては知る由もない。そして今もって、自分が何処からきたのか、何の目的でこの世に来たのか、六〇年以上もこの世に生活しているが、思い出すことも知ることもできないままでいる。   (二〇〇七年)

唐獅子の刺繍

 久しぶりに妹の家に行った時の事、部屋に見慣れない五〇×三〇㎝くらいの額がかかっていた。 大きな玉をだいて、ぎょろりと丸い目をこちらに向けている唐獅子が刺繍された布が張ってある。
しかしじっと見ているとなんだか懐かしい、見た覚えがある。
 「お姉さん、覚えてる? お母さんの絵羽織よ」目を細め優しい表情で妹は私の顔を覗き込んだ…ああ思い出した。
 私が小学校の時、母が参観日などによく着ていた絵羽織の背中にあった刺繍だ。
「もう羽織はぼろぼろになって、お母さんが捨てるというから、思い出にここだけ切って額に入れてもらったの」と妹は言った昭和二〇年(一九四五年)戦争が終わった。
 広島の街は完全に壊滅状態で、焼け野原が広がり、道にはがれきが溢れ、あちこちに白骨体まで残っていた。しかし電車だけは早々と通っていた。広島駅の横にあるガード下には戦災孤児がたくさんたむろし、街にはいたるところ傷痍軍人が白い着物を着て並んで、箱を持って募金活動をしていた。戦争の傷跡がそのまま残っている広島の街だった。
 戦地から父が帰って来た。町内で家族全員が揃ったのは私の家族だけで、どこも家を守っていた主婦が原爆で亡くなっていた。
 父は広島市内の中心にある昔から住んでいた場所に店、倉庫、母屋、離れを建てて、昭和二一年
(一九四六年)に家族は引っ越してきた。すぐに父は商売を始めた。
 昭和二二年(一九四七年)四月、小学校入学式。私は一年生になったのだ。
 我が家から歩いて二分のところにある袋町小学校には樹木は何もなく、もちろん桜の花もなかった。二階建ての校舎は原爆にも耐えてコンクリートの壁だけが残っており、校舎の窓にはまだガラスも入っていない、床は石ころばかりのがたがたで、板を張ったのはずっと後の事だった。入学生を受け入れる形は出来ていなかったが、ともかく広島ではこの年から戦後の教育…男女共学が始まった。