どこから来たの=大門千夏=(36)

 私は中年になって二人の子供と一緒にピアノを習い始めた。やはり母を落胆させた心の痛みがずっと何処かに残っていたのだろうか。五年くらいまじめに習った。そのうち娘がある日ピアノを突然やめてしまった時の憤慨、失望、悲しみ、落胆、初めて母の気持ちが体中で理解できた。…あれから二五年経っていた。
 六〇歳を過ぎてから、妹の家で見た母の羽織の刺繍…これを見てひどい衝撃を覚えた。母のピアノへの執念がこの着物に凝縮されているようで胸がうずいた。申し訳ないことをした。あの物のない戦後に、母は夢中になってオルガンを探してきてくれた。どうしてあんなに簡単に、罪悪感も感謝もなくやめてしまったのだろうか。それ以後、私は母に何一つ夢を与えていない。
 それどころか勝手にブラジルに来て好き放題な事をしてきた。母の心に絶望しか与えていないではないか。初めて母の心の、どうしようもない憤怒、やり場のない激怒、悲嘆が理解できた。
 そうだもう一度やってみよう。そうして母に聞かせてあげよう。あんなに期待してくれたのに私は母の望みを何一つ叶えることは出来なかった。せめて母が生きているうちに弾いて聞かせよう。ピアノの音が無性に恋しくなった。三度目の正直。これは母へのお詫びなのだ。そうして小さいときからの我慢のなさと、我儘への反省でもある。
 今、若いころのように指は動かない、暗譜には時間がかかる、それでも毎日弾いている。結構楽しい。どうして子供の時はいやだったのだろうかと反省する。まだ母には内緒。何時かびっくりさせて…と思っている。もう少し上達したら母はどんな顔をするかなと想像する。
 しかしきっと「今さらねえー」と言って大して喜ばないだろう。意地を張って「貴女がピアノを?ふん!」と白々しく言うだろう。
 「長女の思い出」は絶望と悲しみの記憶として母の心の底に消えることなくしっかりと残っているに違いない。
 昨年、母が急死してしまった。
 とうとう聞かせることが出来なかった。習っていることも言えなかった。お母さんごめんなさいと心から言った。
 母が亡くなり目的が無くなってしまってから、可笑しなことにあなたの趣味は?と聞かれるとピアノと答えるようになった。そう言いながら目に浮かぶのはあの大きなオルガン、その横に母の満面笑みを浮かべた幸せな顔が浮かんでくる。
 「よかった。あなたの老後に趣味ができて」と言ってくれる。
「小さいときに習いに行かせてくれてありがとう。おかげで今、楽しいのよ」と素直に答える。
 東山魁夷は「絵を描くことは祈りである」と言ったそうだ。なるほど、それでは私にとってピアノを弾くことは母への祈りに通じる事なのだ。
「母にたくさんの光が届きますように」と祈りつつ、お母さん聞いててねと、今日も話しかけ、幸せな二人だけの時間をもっている。(二〇一〇年)

母の願い

 成田空港からサンパウロ行きの飛行機に乗った。
 安全ベルトを締めてほっとした途端、自分の体が、突然温かい柔らかい雲のようなものに包まれるのを感じて「あら、お母さん」と思わず声に出して言った。
 途端に雲は消えてしまった。子供のころ全身に感じた温かい母の記憶だ。
 この日は、母の納骨、五〇日祭が終わって三ヵ月ぶりにサンパウロの我が家に向かって飛び立った日の事だった。