どこから来たの=大門千夏=(40)

第四章 白い霧の夜

誕生日

 「行こう行こう、どこでもいいから高ぁーいレストランに行こう」と、電話の向こうに湿った桃子の声。ハハーン夫婦喧嘩をしたな、と私はさっする。
 サンパウロにある一番高いレストランに二人で出かける。体は小さいくせに桃子は食欲旺盛。
 「要するに私達夫婦は相性が悪いのよ。あの人医者だから、患者の前だけ愛想がいいの」と言いながらモリモリと食べる。そしてデザートを食べ終える頃には、うるんだ目もすっかり乾き、ご主人のどんなイヤな言葉も態度も許してしまえるほど寛容なる精神が出来上がるらしい。
 家に着くころには広い心と、散財してチクチク後悔と言う反省心が生じ、後はご夫婦円満。高ぁーいレストランには不思議な魔力があるものだ。こんなことが三?四年続いた。そのうち馬鹿らしくなって、レストラン行きは卒業。
 「行こう行こう。どこでもいいから、どっかに行こう」と相変わらず電話がかかってくる。二人でバスに乗って、どこでもいい、近郊の町に行く。着くとその辺を一回りして、又バスで戻ってくる。
 専業主婦の桃子にとっては、こんなことをするだけでも、うっぷんは消え去り、心身爽快。しばらくは家事に精が出る。二人とも気に入ってしょっちゅう出かけた。その内これにも飽きが来た。
 何処かもっと遠くに行こう、三日くらいの旅をしよう。夫は近々会議で出張するから丁度いいのよと桃子は言う。ミナス州のオーロプレットの町に行こう。
 しかし、家族の手前、何か理由がいる。そうだ丁度あんたの誕生日だから、そのお祝い旅行だと言うわ、と桃子は興奮して言い、小さな目、小さな鼻、ちいさな口、何もかも小作りの上に、おかっぱの髪型をしている桃子は、子供のようにあどけない顔で、いたずらそうにニタリと笑い、話はとんとん拍子に決まった。
 旅行先で迎える誕生日なんて、わが人生で初めてだ。単なる方便ではあっても、心の中にふわふわとピンク色の雲が湧く。キャンドルに火がともり二人のクリスタルのコップがチーンと鳴る。いつか見た幸せの映像だ。おめでとうと桃子が言ってくれる。想像するだけで胸が熱くなってくるではないか。やはり持つべきは古き友、四〇年来の友なのだ。
 オーロプレット、懐かしい響き。一七世紀、金鉱発見によるゴールドラッシュで、もっとも繁栄した古都。朝もやの中に教会の屋根が幾つも見える町、石畳の町、あそこは文化遺産に指定されたのだから、何もかも昔のままに違いない。思いを巡らし、遠い記憶を取りだす。
 あの時は夫も居た、子供達も居た。わずかこの一〇年の間に環境はすっかり変わり、夫は亡くなり子供達は結婚し、今、私は一人。夫のいる桃子が羨ましく、でも時には気の毒にもなる。やっぱり一人がいいのかなと考えたりする。
 夜八時、バスターミナルに桃子が現れた。安眠枕、マッサージ機、あんま機、いろんな七つ道具までもって、大きな荷物を二つ、ヒキズルようにしてやってきた。
 寝る前に一応全部やっておくと明日の朝気分がすっきりするの、と桃子はいい、バスが発車しない前からスイッチを入れて、ゴロゴロと音をたてて体中のマッサージをし、バスが出発しても続けていたが、すぐ寝息を立てて寝てしまった。