どこから来たの=大門千夏=(73)

 こんなところに一人で住んでいた? しかしここまで黒くなるには少々の年月ではないはずだ。雨漏りだろうか、それとも水道管か。今までよくも漏電しなかったこと。
 階段の白い大理石の手すりは壊れたままで、その大きな破片は黄褐色になって階段の下に転がっている。すぐ近くに住む娘は左官を呼んでやることも、電球一つ取り換えてあげることもしなかったのだろうか。
 薄暗い応接間は早々と片付けられてもう何にもなかった。ただ床に埃にまみれ、擦り切れた絨毯が敷いてあって、今では色も柄も判からなくなるほど汚れ、シミが出来、これもカビその物だった。
…どうして?
 部屋の壁にそって右奥に細長い三つの飾棚があり、その中にびっしりとコーヒーカップのコレクションが入っていた。
 女はすぐに鍵を取り出して飾棚を開けようとしたが、私は開けなくても外から充分わかるからと言った。
 このコーヒーカップより、真っ黒になった天井と壁に気を取られていた。…老婆は毎夜ここに座ってこのお化けのようなカビを見て過ごしたのだろうか。この匂い! この冷たさ! まるで洞窟の中にいるようだ。
 親子の間で何があったかは知らないが、左官を呼んでくるだけの経済力も体力もなくなり、娘や孫との絆もなくして一人で孤独の中に生きていた老婆の姿が目に浮かんだ。
 細長いクリスタレイラ(ガラスの入った飾り棚)は三段になっていて、そこにびっしりとコーヒーカップが並べてある。全部で一〇〇客くらいあるだろう。ブラジル製も外国製もいろいろある。かつて人生の華やかだった頃、若さと健康があった頃、旅行の度に集めたに違いない母親のコレクション。
 中をじっと見ていると、クレヨンで服は赤と青色に、鼻は丸く黄色に塗られた厚紙のピエロがおどけた顔をして立っている。「おばあちゃん誕生日おめでとう」とたどたどしく書かれたカードがある。小さい宇宙人のような絵もある。きっとおばあちゃんを描いたのだろう。マッチ箱の家、ヤクルトの空き容器で作った動物、高さ一〇㎝くらいの赤い紙のクリスマスツリー、どれも厚紙がカサカサに乾いてめくれあがり、糊もはげて黄色く変色しているが、これらがさもさも大切そうにカップの間間にきちんと並べて飾ってある。
 さっきテレビを見ていた男の子たちの小さい時の姿がチラと頭の中をよぎった。孫や娘とのつながりがあった日々。これらをもらった時の老婆の幸せな姿、喜びの姿が目に見えるようだ。
「父が亡くなってから後一四年間、母が八三歳まで一人でずっとこの家に住んでいたの」女は他人事のように話して、「このカップ、買ってもらえます?」語尾を上げて歌うように言った。
「……」
「全部でいくらくらいになるかしら」
「……」
「同じものがいくつかあるけど、全部まとめて買ってほしいけど……」
「……」
 何時までも返事をしない私に心配になったのか、真面目な顔をして、「あのー、買ってもらえないなら、誰か他の人を紹介してほしいけど……」
 私はずっと胸が塞いでいた。この女性は亡くなった母親の事を考えたことがないのだろうか。
「お母さんが一生かかって集められたコレクションでしょう?」そう言うと、当たり前だと言わんばかりに、うるさそうに私を見た。