どこから来たの=大門千夏=(101)

 夫の好きな野の花…カタバミが、コップの中で小さく震えていた。
 曲は静まり返った巨大な遺跡中に響き渡り、隅々にまで緩やかに流れ、そして灰色の雲を突き抜け青い空に向かって、宇宙に向かって何時までも消えることなく広がって行く。
 今、二人の子供を何とか育て上げたこと、助け合って元気に暮らしていること、もうあなたがこの世に思いを残すことはないから安心してほしいこと、私は大丈夫だから心配しないでいいからと、伝えたかった。
 演奏が終わると、ブラボーという声が怒涛のように起こり、大きな拍手が長いこと鳴りやまない。群衆は帰ろうともしないで、皆その場に立ち尽くしている。
…僕がいなくなっても、たくさん友だちを作って楽しく暮らして。約束だよ…と私に言い残した夫の顔に今、初めてほほ笑みが浮かんだ。
 私の思いが確実に向こう側にいる夫に伝わったと信じられた。
 しばらくすると、鼠色のジャンパーを着、痩せた顔色の悪い一人の青年が無表情で、右手に民族楽器ケーナという竹製の縦笛をもち、左手につばのある帽子を持って、ゆっくりと遺跡の上を歩いてこちらに向かってくる。「ありがとう」思わず声に出して言った。
 それからというものどんな音も受け入れる事ができるようになった。それどころか時々「コンドルが飛んで行く」を口ずさんでいる。
 あのサクサイワーマンの灰色の空が目の前に広がってくる。遺跡の上を吹きすさぶ風の音が聞こえてくる。今、病室でカタバミの花を震わせたあの風の音まで聞こえてくる。(二〇〇八年)

 終わりに

 一九四一年、広島市のど真ん中、袋町小学校のすぐそばに生まれました。
 本名は福居(田村)三千代。中学、高校はミッションスクールの私立広島女学院。子供のころから外国に行くことと、骨董屋をやることが私の夢でした。
 外国は、日本以外の国であれば何処でもよかったのです。いろいろ調べてみると、そのころは、カナダ、アメリカ、ハワイ、オーストラリア、もう何処の国も外国人に対して門戸を閉めており、居住権を呉れる国はありません。(かといって不法滞在してオドオドと生活するのは私の性分に合いません。)
 ただ一ヵ国、ブラジルだけが移住者を受け入れていました。
 そこで、ブラジルに行こう。ならば農業移民――ならば農業――と考えて、ハテ困りました。私は農業はしたことがないのです。父は商売人(香料商)でした。
 そこで大学は国立鳥取大学農学部に行くことに決めたのです。そうすれば何かツテが見つかるに違いない。
 大自然に囲まれた鳥取の学生生活は想像以上に楽しく、心温まる気持ちで今、思い出しています。
 農学部には農家の長男が多いせいか、気分の大きな人ばかり、こせこせした人が居ないのです。そんな中で四年間が夢のように過ぎました。鳥取は私の第二の故郷です。
 ここで先輩である県庁に勤める栄田剛氏を紹介され、彼はブラジルでの引受人を見つけて下さったり、移住手続きをして下さったり、おかげで卒業と同時にブラジルに行く準備がすべて整いました。