どこから来たの=大門千夏=(102)

 一九六三年、神戸港を出発しました。(あれから五〇数年経った今頃になって、両親には大変な心配をかけた、親不孝したと気がついて申し訳ない思いをしています。)西回りの船を選び、あちこち寄港のたびに観光してまわり、六〇日かけて世界半周。船酔いもせず旅を楽しみました。
 沖縄――香港――シンガポール――ペナン――モリシャス――アフリカのダーバン――ポートエリザベス――ローレンソ・マルケス――ケープタウン――リオデジャネイロ――そしてサントスに着きました。
 栄田さんが紹介してくださった全国拓殖連盟の渡辺氏夫妻がサントス港に迎えに来て下さり、落ち着く先はサンパウロ市内の渡辺氏のアパート。
 渡辺さん家族には、娘のようにかわいがっていただき、結婚するまでここに居ました。お姉さん(良子さん)にはあちこち知らないところに連れて行ってもらい、お兄さん(ハルオさん)には、毎週日本映画に連れて行ってもらい、サンパウロの生活は見るもの聞くもの何もかも珍しく、驚くことばかり。
 二ヵ月後にはコチア産業組合が出版している「農業と共同」という雑誌の編集部に就職。ここでは後に人文科学研究所の所長をなさった宮尾進氏が編集長でした。
 この本を出版するにあたってお世話になった田中慎二氏も私の斜め前に座っておられました。
 それから右隣には後、日系文学編集長になられた中田みちよ様が座っておられました。(私が文章を書くようになったのは中田様のおかげです)
 そうして一年後、婚約者である田村肇が日本から来、結婚。そんなわけでブラジル生活はよき人達に囲まれて、幸せな出発でした。
 結婚してからは、郁さんとブラジル人のルジアという二人の女性=「生涯の友」に出会ったおかげで日本シックにも広島シックにもならず、ともかく楽しく、愉快なことが多くて、ブラジル生活は十二分に満足でした。
 子供が二人生れて手がかからなくなってから、一九八〇年、三九歳の時、ブルックリンに小さな骨董屋を開けました。
 小さい時から祖母や母の影響で骨董品が大好き。おかげで世界中を旅行できて、友人までたくさん出来、幸せなことでした。
 これで私の夢は二つとも成就したのですが、やっと店が軌道に乗り出したころ、夫が急に亡くなりました。これは我が生涯をとおして最大の悲しみであり、後悔することです。
 夫亡き後、二人の子供に励まされ、勇気をもらって今日まで来ました。今では四人の孫もいます。ブラジルに来て五〇年以上がたちました。広島にいた両親も亡くなり、友人もポツポツと亡くなり、ほんとうに寂しい限りです。私の一番の故郷はやはり広島です。
 この未知の国ブラジルで、よき出会い、幸せな出会いに恵まれて、多くの人にお世話になって、山ほどの親切を受けて、今日を迎えています。
 今、たくさんの知り合った方たちの懐かしい顔、顔が目に浮かびます。感謝という言葉しかありません。ありがとうございました。
 昨年亡くなられました人文科学研究所の宮尾進様には、何年にもわたって文章のご指導をしていただきました。励ましていただきました。大変お世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。冥福をお祈りしています。
 醍醐麻沙夫様にも文章の指導をしていただきました。心からお礼申しあげます。
 出版に関して多大なる協力をしてくださった田中慎二様、心よりありがとうございました。
 (二〇一七年四月 サンパウロにて、終わり)