自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(5)

 一三時頃、われわれの陣地後方、大隊指揮所前方に配備された、九〇式自走野砲と傍の大隊砲各一門は、直撃弾三発を受けて破壊された。
 一四時頃、中央丘陵に布陣した第五分隊は、敵歩兵に攻撃されて応戦し撃退した。それから数一〇分後、敵火砲の集中砲火を浴びて全滅した。谷越しに五分隊の応戦と全滅を見下していて、断腸の思いであった。
 分隊長は同期候補生の多治見であったから、悲愴感はなおさら強烈であった。彼とは同期のなかで、一選抜を争っていた。厩屋当番にたった翌日、右手中指がヒョウソにかかっているのに気付いた。激痛に耐えて勤務したが、班長から一週間の練兵休を申し渡された。
 中指は二倍位に腫れていた。麻酔なしで膿がたまっている中指の爪半分をメスで切られ、ヤットコで引き抜かれた時は、あまりの痛さに失神した。その結果私は多治見候補生との競争に落伍した。
 開戦と同時に彼は第五分隊長となり、そして戦死してしまった。私は予備射手として第四分隊の銃座の横六mのタコ壷に入り、生きのびた。人生なにが幸いするか分からないとつくづく思った。
 いきなり左方の銃座から機関銃の発射音がひびいた。同時にパシ、パシ、パシと弾丸が頭上を掠めた。ソ連兵一二、三名が、自動小銃を腰だめにし、乱射しながら七、八〇mまで接近してきている。味方の機関銃が四保弾板位を射った頃、ソ連兵は潮が引くように後退し、再び襲ってこなかった。それから半時間位の後、銃座の左斜後方四〇mあたりにソ連軍の砲弾が集中着弾し、黒煙と土砂を吹きあげた。
 一六時過ぎ大隊指揮所へ命令受領に行く。先程集中着弾した傍を通り抜けながらその凄さに驚いた。幅四〇m位、長さ一〇〇mと思われる範囲内を着弾跡が重なるように黒々とえぐっていた。
 第五分隊は敵歩兵との射撃戦のあと集中砲火を浴びて全滅した。わが第四分隊も敵歩兵と交戦した後、左斜後方に集中着弾したのは、われわれが狙われたのだろう。凄い砲弾の量であったが、幸い狙いがそれたようだ。
 陣地後側の岩山に沿って隘路を通り抜けると、緩い傾斜の平地が広がっている。隘路の出口から一〇〇mほどの場所に、一箇小隊の歩兵が、急造の浅い塹壕に銃をかまえて、私が出た隘路を凝視していた。その散兵線の端を通り過ぎる私を、誰一人として注目するものはいなかった。
 大隊指揮所では、命令は何一つ出なかった。午前九時から休みなく続いた敵の砲撃は、一八時にピタッと止んだ。どれだけ射てば気がすむのだろうかと思うほどの量である。
 夕闇が迫る頃、時雨が通り過ぎた。そのあとを追うように肉弾攻撃隊(略して肉攻隊)第八中隊一二〇名余りが、アンパン型対戦車爆雷をかかえ、陣前を斜めに横切って出撃した。
 同時刻、第七中隊より、右と同じ肉弾攻撃班八名が出撃するが、生還者なし。第八中隊肉攻隊一二〇名のうち、翌朝生還したのは、私の見た限りでは一名だけだった。
 八月一六日、朝よりソ連軍の砲撃なし。午前中銃声聞こえず。午後、静寂破れる。一五時過ぎ左側の中央丘陵先端近くで交戦した第七中隊前線小隊半減。
 一六時頃、中村山頂でソ軍大型戦車二輌と交戦し、我方の損害大。
 一六時半、ソ軍尖兵隊約三〇名が、第三大隊指揮所の前方、二〇〇m地点まで進入。昨日同時刻頃、私は大隊指揮所へ命令受領に行っている。一日違いでソ連兵に遭わなかった。