自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(9)

 立錐の余地もないほど押し込まれたから、錠のことなど気に留めなかったのかもしれない。列車が動き出すと、前方から順次腰をおろしていった。どうにか腰をおろすと落着いた気分が湧き、一斉に黒パンに齧りついた。強い酸味が口中にひろがったが、みんなは黙々と食っていた。
 扉の傍に置いてある半分に切った樽は、便器代りらしい。列車が進むにつれていつの間にか、全員は横になっていた。頭と足を交互に置き、躯を横にしてお互いに密着しているから身動きはできない。鼻先に隣りの兵の軍靴が迫ってくる。
 夕暮れ近く満洲里駅を過ぎる。白樺林の間に赤瓦白壁の家が芝生にかこまれて、点々と建っているのが扉の隙間から見えた。異国情緒満点だ。
 陽が落ちて車内は真暗になった。単調な車輪の響きが聞こえるだけである。床板の隙間から吹き上げてくる風は、毛布と衣服を通して肌を刺すように痛い。寝返りができないから尚つらい。冷えるから誰もが二、三回は小用に行く。扉の傍の樽までぎっしり詰った躯の間に、靴先をこじいれて歩く。貨車の揺れで所かまわず踏み付けることもあるが、お互い様で文句をいうものはいなかった。用を足して戻ると元の場所は分からなくなっている。適当に躯を押しこんで横たわった。そのうちに便器用樽は一杯になり、揺れるたびに飛び散った。側に寝ていた奴はたまりかねて
「小便なんかするな」
 と、怒鳴っていた。臭気は貨車内に満ち、まるで家畜車である。眠れぬ一夜が明けた。やがて昇った太陽は、後方、東からである。騙されたことに気付いたが、手の施しようがない。貨車の中は次第に明るくなるが、暗い沈黙に包まれてしまった。
 西進を続ける列車がようやく停った。錠が解かれ扉が開けられた。自動小銃をかまえたカンボーイ(監視兵)が、銃口を振って降りろのゼスチャーをした。小川には透きとおる水が流れていた。我先に顔を水に突っ込み、喉の渇きをいやした。太陽は可成り西に傾いていた。
「ダバイ、ダバイ」(早く早く)
 と、銃口に追われて、丸い河原石の上を歩いた。周囲を見渡すと人家が一軒も見えない大平原である。すでに枯草が目立ち、緑の草はまばらである。
 夢の中の一つ……荒涼とした冬枯れの平原の中に佇っていた私の姿……が頭の中をよぎった。ノーバヤという町外れの倉庫が今夜の宿舎であった。ノーバヤはチタ市の東側の町である。板張りの倉庫の内部は、地肌が黒々と湿っていた。土間に腰をおろす。日暮れて薄暗い電燈が灯った。膝をかかえ、寒さにふるえ、食物もなく一夜を明かした。
 陽が昇った。小型トラックに乗車すると直ぐに出発した。まもなく山路に差しかかる。進行方向に対して、太陽は左から右に移っている。どこへ連行されるのか分からないが、南へ進んでいる。今までよりは暖かい方へ行くのだろうと、希望的観測ながら安心感が湧いた。なにしろ博克図仮収容所、貨車、昨夜の倉庫では耐えがたい寒さであったから、南へ向っていることが、不安を少しだけ解消させてくれた。太陽が頭上を過ぎた頃、トラックが停った。少しばかりロシア語の分かる一人の兵が、「用便をして下さい」と怒鳴った。