自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(14)

  九、食事

 初日に筆を戻す。
 初日、死ぬ思いで宿舎に帰りつき、欲も得もなくジットリ湿っている床板に横たわった。一杯の水も一椀の飯さえない、雪を口に含んで乾きをおさえた。
 前節で二日目から一〇日近くまで、どこでどんな作業をしたのか、記憶が消えていると書いた。
 一九九二年、ラーゲリ跡へ墓参に行った時、同行の戦友たちも私同然、数日間の記憶を失っていた。
 極限を通りこした苦痛の果ての絶望は、記憶を消し去っていたのである。
 数日実なし塩汁が続いたのちの、次のメニューは赤色塩汁の底に高粱(コウリャン)五〇粒ぐらいが沈んでいるものに変った。高粱が増えたのと未精白だから高粱の赤色がついて、少しばかり汁が上等になった。とはいうものの、体力の増強にはならない。私たちは自分の体脂肪を消費しながら確実に死への道を歩んでいた。
 赤色高粱汁のメニューは、私たちが伐採に出発した一〇月末まで続いた。それから後のことは不明であるが、一一月と一二月の二ヵ月の間に、残員五〇〇名余りが全員病気で斃れ、一六二名の死者が出たから食事の改善はなかったようである。
 ただ、マッチ箱大の黒パン一切れが、週に一回増えたに過ぎない。生きるための最低カロリーさえ与えられない奴隷以下の待遇は、酷寒と強制労働によって衰弱に拍車をかけ次々に斃れて、九月から一〇月までの二ヵ月で死者八一名を数えた。
 ソ連側はノルマどころか、全く捗らない初期の作業を中止した。そして後述する軽作業を二〇人~三〇人の単位で割当てるようになった。

 ここで抑留中の食物を一括して概略記しておくことにする。
 前述の実なし汁と高粱汁のあと私は一一月から伐採に従事し、そこでの食事は、粟、小さなジャガイモとキャベツだけの粗食であったが、腹一杯食うことができた。
 四五年一二月末に伐採から帰ってみると、メニューは箸が立たない白米の薄粥に変っていた。量の増減はあったものの、平均して飯盒に四分目ぐらいである。病人食だから啜り終ると、すぐに空腹を覚えた。この白米の薄粥は、北鮮を経由して帰還船に乗るまで、律義に続けられた。時には無配給を混じえながら……。
 例外は三つある。
 四六年三月と四月に週一回ではあったが、一人当り黒パン二〇〇gが、お粥の代りに支給された。五月下旬にラーゲリを出たから、それ以後は不明である。
 北朝鮮の清津北方の三合里という地域に移ってから、お頭付二〇㎝ほどの塩鯖だけを朝夕二回支給された。二週間ばかり続いたであろうか。初めの二、三日は露助の奴郎も、時には味なことをするなどと誉めていたが、四日五日と続くうちに、舌を刺すような味覚に不審を覚えた。
 魚に当って死者が出た。当番が塩鯖を配る時、魚箱の消えかかった文字を調べた。なんと昭和一一年製造と一五年製造の文字が判読された。製造後六年から九年も過ぎている代物だった。初め頃は貴重な蛋白源だと喜んだが、塩鯖だけが続くのには閉口した。