一度だけ身内の話を
かつて身内のことを、本コラムで書いたことはない。
だが社長から「今回の眞子さまの取材では記者が全伯を飛び回って、全員ががんばった。ポルトガル語編集部も。そのことを一度ぐらい書いてくれ」と言われた。
もしも吉田尚則前編集長に「身内の話を書いてもいいか」と相談したら、「しゃらくさい。社会の公器たる新聞に、身内の話、つまり個人的なこと書くのは読者に失礼だろうが」と怒られるかもしれない。
だが、次の移民120周年の機会には、紙で発行される邦字紙はなくなっている可能性が高い。それなら110周年を最後の機会として、一度くらい記者のことを書かせてもらってもバチはあたるまい。実際、彼らなくして邦字紙は成り立たない。日本からの助っ人である彼らもまた、立派なコロニアの歴史の一部だ。
現在、日本語編集部にいる記者3人はみな二十代、今回の110周年取材をするために滞在を延長してくれた猛者ばかりだ。
例えばリオ、サンパウロ、ベレン、トメアスーと、文字通り全伯を飛び回った國分雪月記者。彼女は大学を卒業したばかりで一見寡黙な女性だ。ところが、実は関心を持ったことには体当たりで突撃取材をする勢いがある。先月の移民の日特集号にあった「ジョアン・デ・デウスの館」に潜入取材したのはその真骨頂だ。
それに彼女は「あげまん」記者で、彼女が連載で取り組んだネタは不思議なことに実現する。たとえば、いったんは在外邦人全員が使えなくなったJRパスが、彼女の連載後、在留期間10年以上の在外邦人にかぎって利用可能になった。そして四世ビザ連載もしたが、この7月から実際に始まっている。
山縣陸人記者は優男のイケメン風だが実はハードボイルドだ。彼は今回サンパウロとマナウスを担当。
彼からメールで、《24日午前1時にマナウスの空港について1時間ほどベンチで寝ていたのですが、吐き気で目覚めてトイレに行き、(便器だと態勢が辛かったため)床に座り込んで吐いたり腹を下したり寝たりするという時間を過ごしました。飲んだ水もすぐ吐き出すというほどで、携帯をポケットから取り出す元気もなく、回復したころに携帯で時間を確認したら午前8時で、トイレに座り込み6時間も過ごしていました。感覚としては1、2時間くらいと思っていたのでびっくりしました。時間の感覚がなくなるくらいもうろうとしていたようです。その後、正露丸を飲んで、ホテルに向かいました。夕方の取材の前くらいから完全に回復しています》と報告が来たのには驚いた。
今回の取材に一番情熱を燃やしたのは大澤航平記者だ。ロンドリーナ、マリンガー、プロミッソン、平野植民地、アラサツーバとご訪問のハイライトを担当した。
特にプロミッソンにはご訪問が決まる前の昨年から3回も足を運び、その都度、気運を盛り上げる記事を書いてきた。だから地元が皇室ご訪問を待望する声が繰り返し報道できた。60年ぶりのサンパウロ州地方部ご訪問を実現するには、地元の気持ちを存分に伝えることは必須だ。
大澤記者は今回、プロミッソンには前夜から現地入りし、安永忠邦さん宅に泊めてもらいながら密着取材した。眞子さまが平野植民地の慰霊碑で皇族としては初めて献花をされ、それを見た地元の森部静代さんが泣き崩れた。それを眞子さまが優しく抱擁されたシーンを見て、大澤記者は感動の涙でノートの字をにじませながら取材を続けたと聞く。
なお順次、日本に帰って行く彼らの代わりに、編集部では新しく記者を募集中だ。関心のある人は「記者研修の件」と件名に書いたメール(redacao@nikkeyshimbun.jp)を送って欲しい。
もう一人特筆すべきは、本紙週刊ポ語新聞NIPPAKの樋口アウド編集長だ。彼はマリンガーの取材を終えたその足で夜行バスに乗ってサンパウロ市へ向かい、翌朝から県連日本祭りの110周年式典を取材、その晩はまたバスでプロミッソンへ。なんとパラナとサンパウロ州の主要式典を3日間連続で取材した。
しかもその晩もバスでサンパウロ市に戻り、そのまま編集部にこもって全ての記事を書き上げ、無事に23日の新聞に載せた。アウドの二世記者根性は感嘆に値する。
日本語新聞は読者が凄い勢いで減り続けている。将来的に日系社会のコンセンサスを作れるのはNIPPAK紙以外にない。120周年、130周年を盛り上げるにはコミュニティ新聞は欠かせない。
だから本紙読者のみなさんに折り入ってお願いがある。このNIPPAKが移民150周年まで続くように、ぜひ子や孫に読ませてほしい。週刊なので半年でたった90レアルだ。ぜひ購読を子孫にプレゼントしてほしい。NIPPAKにこそ、日系人意識を継続させ、日系社会を続ける鍵が隠されている。(深)