自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(25)

 墓参団が出発する前夜、新潟市のホテルで会い、すぐに四角な顔にメガネの彼を思い出した。松の原生林へ伐採の応援に行ったことを話した。すでに八〇歳をこえていた彼は、「ああ、覚えているよ。どこの兵隊かと思ったんだ。そうか君たちだったのか」と、遠くを見る眼差しになった。
 彼は隊長であった。にも拘わらずあの伐採で腰椎を痛め、コルセットを締めて墓参行に参加した。(死んだ部下を忘れることができないんだよ)と、涙を浮べた。現場に出て兵と苦労を分かち合う将校は希有であった。彼が率いた兵は三〇〇名。死者は一二六名で、死亡率四二%であるから、モルドイやハプチェランガの死亡率とほとんど変らない。食料事情は他と同じであるから、伐採という重労働を考慮すると、彼の統率力がいかに勝れていたかが想像できた。

 到着早々、ノルマが言い渡された。直径一m以上の松樹を切り倒し、末口が五〇㎝ぐらいのところまで、三・五mの長さに切る。そして集積場まで運び出す。ノルマは三本。 
 松樹を見上げ、幹周りを目測して溜息が出た。圧倒されてしまった。伐採にかかる前からその重量感に参ってしまったのだ。逃げ出すわけにはいかないから、兎に角樹の周囲の雪を除いて、大斧で受口を切る。二人が向き合い追口を鋸で挽くのだが、なんといっても大木である。凍っているから鋸に樹脂はつかないが、うまく二人の息が合わないと、鋸はスムースに動かない。
 白樺を挽く具合にはいかなかった。零下三〇度近い厳寒の中で、二人は汗ばみ、なんとか一本を倒した。一息いれると枝払いである。太い枝は胴の太さもあった。苦心惨憺とはこのことかと、ぼやきながら斧をふるい、枝を払って三・五mの長さに切るのであった。
 これから搬出である。切口に鉄製の楔を打ちこみ、頭部の穴に太綱を通す。次に先より三分の一辺りに綱を巻く。一〇人が綱に取りついて掛声をあわせながら曳く。膝あたりまで雪が積もっているから、二歩三歩は脚が前にでてもそこで止ってしまう。止まると材木の頭が雪の中に沈んでなかなか動いてくれない。
 全員が躯を前に倒し一、二の三と掛声で曳いても今度は足が前に出ない。四苦八苦の態で唸っている時、近くの兵を集め材木の下に棒を五本入れて、曳くようにしてくれたのが、(註)に書いた小山田知正氏だった。二本目は倒れる方向の目測を誤ってしまった。追口を挽くにつれて鋸が食い込み動かなくなった。
 小枝で楔を作って打ちこみながら挽き切ったが、素人の悲しさで倒れる方向が判断できなくて、周囲の人達全部に倒れる合図を送るような失態をしてしまった。
 二本目の搬出を終えた時、ここのカンボーイがトラックに積めと命令した。荷台に六本の棒をたてかけた。五人は長い棒を持ち、材木の下に差し込んで、荷台にかけた棒に乗せる。われわれ五人は、僅かに浮いた材木の下に短い棒を入れて支える。長棒組は棒を深く差し込んで材木を持ち上げる。数回繰り返すと、胸下まで材木が来た。それからはシャーシが邪魔になって、長棒は梃子の役目を果せなくなった。
 肩を入れたわれわれ五人は、掛声をかけながらジリジリと押し上げて行く。材木の直径は一m以上、長さ三・五mである。太さと重さに押しつぶされそうになった。荷台の高さは顎のあたりである。あと二〇㎝位のところで、力が尽きそうになった。ほかの四人も尽きかけそうな力を振り絞って耐えているに違いない。