沖縄移民110周年=国内外から700人、式典盛大に=島袋会長「心の遺産の継承を」=国境越え絆深めるウチナーンチュ

節目を祝って祝杯を上げた

節目を祝って祝杯を上げた

 【既報関連】3日間に渡って盛大に催されたブラジル沖縄県人移民110周年記念行事の最終日の5日、式典がジアデマ市のブラジル沖縄文化センターで行われた。母県や国外からの慶祝団をあわせて約700人が出席。沖縄県人325人を乗せた笠戸丸移民から110年の県系人社会の歩みに思いを馳せ、国境を越えた絆を深めると共に、次世代への〃心の遺産〃の継承を誓った。

ケーキカットで110周年を祝った

ケーキカットで110周年を祝った

 両国歌斉唱の後に挨拶に立った島袋栄喜沖縄県人会長は、「今日の発展と繁栄は団結力、組織力、芸能文化の力、相互扶助の精神が基盤。その根底には、いちゃりばちょーでー(一度会ったら皆兄弟)、ゆいまーる(相互扶助)、ちむぐくる(友愛)の伝統的精神が反映されている。若者たちに心の遺産を継承してゆく責任がある」と誓いを立てた。
 また「心の底に眠っているウチナーンチュ精神を呼び起こして育む上で大きな力になっている」として母県との絆の重要性を訴え、「若者がウチナーンチュの教えを持って世界的ネットワークを形成し、社会に貢献することを願っている」と期待を寄せた。
 母県からも祝辞が続き、翁長雄志県知事の挨拶文を代読した富川盛武副知事は「県系人の皆様が伯社会の様々な分野で活躍し、発展に寄与されてきたことは沖縄県民にとって大きな誇り」と称え、新里米吉県議会議長は「国際交流の推進に引き続き最大限の努力を傾注する」と宣言。那覇市の城間幹子市長は「戦前戦後を通じ、沖縄の復興発展のためにご尽力頂いた先人のちむぐくるを、私たちは片時も忘れたことはありません」と在外同胞への思いを語った。
 下地幹郎衆議も「ウチナーンチュに生まれて良かった。ブラジルの沖縄県人は頑張っていると改めて感じた。この気持ちを大切にしながら、皆さんと一緒に頑張っていく」と語り、情熱を注ぐ日系四世ビザについて「表面的なものにならないよう、一世の苦労をしっかり受け止めた制度になるよう頑張りたい」と語った。
 その他、野口泰在聖総領事、山田康夫県連会長、飯星ワルテル連邦下議、ブラジル連邦共和国在那覇名誉領事の西原篤一氏、うりずん会の新城盛博アレシャンドレ会長も祝辞を述べた。表彰式では県人会本部・支部功労者、移民資料収集・保管功労者、各支部婦人会、海外特別功労者あわせて61の団体・個人に表彰状が授与された。
 節目を祝して鏡開き、ケーキカットの後、昼食会に。琉球芸能やブラジル民族芸能など10の演目が披露され、最後はカチャーシーで熱気を帯び会場一体となった。
 ペルー沖縄県人会から参加した我那覇宗孝顧問(62、三世)は「在外県系社会は、10年前まで母県以外との交流は少なかったが、ニセーターツアー(南米沖縄県系人の若者の交流)も07年に始まり、横の絆が強まっている」と語る。
 「ペルー日系社会は10万人のうち7割が沖縄県系人だが、ブラジルほど若手参加は活発ではなく、大きな感銘を受けた。今後も益々交流を深め、互いに発展していきたい」と思いを新たにしていた。

会場全体の様子

会場全体の様子

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 1943年に発生したサントス強制立退きの真相究明と連邦政府への謝罪を求める運動を開始したブラジル沖縄県人会だが、「ペルーでも日本人に対する厳しい弾圧が行われた」と我那覇宗孝さんは語る。日米開戦の41年には、ペルー国籍を持っていた日系人すらも国籍を剥奪され、日系人の資産凍結と共に、約2千人の日系人がペルーから北米の強制収容所に送られた。我那覇さんの親戚も7人が収監され、終戦後もペルーに戻れず、次なる新天地を求めブラジルに渡ってきた親族もいるのだとか。我那覇さんは「金物屋を営んでいた両親も全てを奪われ、山に逃げ込んで身を潜めて生活した。戦後、県系社会の頼母子講のおかげで商店を再び立ち上げ、90年代までこの仕組みは続いていた」とか。そのような苦労を共に乗り超えてきたからこそ、沖縄県系社会は団結力が強いのかも。