110周年式典総括=菊地実行委員長「やればできる」=有言実行、心血注いだ一年半=25県も行脚、地道に募金

菊地実行委員長

菊地実行委員長

 「短期決戦だったが、皆さんのおかげで成功裏に終えられた。やればできることを示せたのではないか」――サンパウロ市の「ブラジル日本移民110周年記念式典」から1カ月、祭典のピークを越えた心境を、菊地義治実行委員長はこう振り返った。昨年1月に実行委員長に就任し、〃最後のご奉公〃として心血を注いできた。式典の総括と年末までの展望を聞いた。

 

 通常、周年事業は5年前から委員会が発足して準備をする。だが110周年では発足が遅れ、実行委員長の人選が行き詰っていた。火中の栗を拾うように、大役を快諾したのが菊地氏だった。

 就任にあたり県連日本祭での式典開催を条件とした。これまでパカエンブー等で式典を開催してきたが、膨大な経費を要していたからだ。

 「限られた期間のなかで資金調達をした。無駄な経費を省いて次に繋がる効果的なものにできないか」――世界最大の同祭で式典を行うことで、母県からの参加を促して新たな交流を生み、日系社会の活性化に繋げることが狙いだった。

 昨年4月に実行委員会が発足すると、菊地氏は招待状を持参し、2回に渡って訪日。110周年とともに周年事業を控える都道府県を中心に全国25県を東奔西走し、式典出席とともに同祭への協力を呼びかけた。地道な努力が結実し、天災に見舞われるなか18県から300人を超える大慶祝団が式典に出席した。

 同実行委員長は資金獲得に骨を折った。援協会長時代に培った信頼と持ち前の粘り腰で、トヨタ自動車や本田技研等の景品贈呈を受け、2回も協力券販売を実施した。

 募金活動では一軒一軒を歩いて廻り、「門前払いされたことも何度もあった」と苦笑する。だが「祭典についてきちんと説明し、熱意を持って販売に取組んだ」。菊地実行委員長の熱い思いに動かされ、「日系社会のためならば」と故・原沢和夫(元援協会長)の家族から100万レアルの大型寄付も寄せられた。協力券と合わせ、最終的には当初の目標額を越える380万レ近くが集まった。

 約4千人が出席した記念式典については「会場をもっと大きくしたいという思いもあった。だが余り規模が大きすぎると遠くの人は見えなくなり、一体感が薄れてしまう。照明も音響も非常に良く、舞台から発散された情熱が会場と一体と化した」と手応えを語る。日本の慶祝団からも総じて賞賛の声が相次いだ。

 一方で「眞子さまにお越し頂いたのに式典だけで終わってしまい、地方であったような感動が少なかった。47都道府県の郷土食広場をどれだけのボランティアが裏で支えているか。この規模感、素晴らしい日系人の活動をお見せする絶好の見せ場を逃したというのは心残りだ」と評した。

 今後、記念事業として国士舘再開発計画が進められるが、菊地実行委員長が祭典の総括と位置づけるのが11月に開催を予定する「シンポジューム」だ。今祭典に様々な形で携わった若者を中心に講演が行われる予定。

 菊地実行委員長は「2千人を纏め上げた芸能ショーは若手が中心となって企画された。我々は新たなものを生み出してゆく、日系社会の若い力を支援してゆくべき。次の120周年にそれが開花するよう、4、5年かけて醸成していかなくては。祭りは日本の文化、藝術、道徳、日本人の生真面目さの蓄積。伝えるべき価値観をきちんと把握し、次世代に引継いでゆく。それが我々の役割であり、日伯親善に繋がるはずだ」と熱い思いを語った。

 

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 110周年式典の芸能ショーを見たモジ在住の某日系人からは「圧巻の演出が大変素晴らしかった」と1万レもの寄付があったという。菊地実行委員長は「協力券の販売を通じて、日系人としての絆を確かめ合うことに意味があった」と語る。一方で「協力してもらったからには期待に応えなくてはいけない。恩を受けたらそれを返すのが日本人。それをこの祭典を通じて伝えたかった」とも。実際、今式典に出席した都道府県や協賛企業、芸能団体等には礼状も発送しているのだとか。経済不況のなか短期間でこれほどの募金が集まったのは、日本人としての義理を貫く菊地実行委員長への信頼によるところが大きいのかも。