自分史=私のシベリア抑留記=(32)=谷口 範之

 柵と柵の間は一m巾、内側の柵の高さは二・五m、中央の柵の高さは三m、有刺鉄線は一五㎝間隔に張りめぐらしてある。カンボーイに咎められないで、どうやってあの狭い間に投げ込んだのだろうかと一瞬考えた。が、思わず柵に駆けよった瞬間、銃声と同時にパシッと弾丸が頭上近くを走った。ハッと首をすくめて立ち止った。右上隅の監視塔から射ってきたのだ。
 銃声で数人のカンボーイ(監視兵)が駆けつけてきた。サージェント(軍曹)がいきなり私の頬を叩いて叫んだ。何を言っているのか分からないが、ダモイ(帰国)という言葉が、数回聞きとれた。彼の眼は愁いを含んでいた。
 柵内の雑のうを指差した私は、あれは俺のだ。だれかが投げ込んだんだ、と言った。
 サージェントはまた何か言ったが、彼の顔と眼を見ていると
(生きていれば、いつか日本に帰れるんだ。雑のうなんかに執着するなよ)
 と、言っているようであった。思わず
「スパシーボ」(有難う)
 と、礼を言った。飯盒と水筒と箸だけが入れてある雑のうは、とうとう取戻せなかった。戦友の一人がどこからか員数を合わしてくれた。何のために、誰が私の雑のうを柵内に投げこんだのか、心当りはなかった。人から恨まれ羨しがられる覚えもなかった。
 柵に近寄ると射たれることを私たち兵は知っていなかった。そのことを知っていたのは、ソ連兵のほかに日本軍の将校だけである。通訳に訊ねて初めてそうしたことが分った。通訳は一m以内に近付くと、射たれることになっているんだ。知らなかったのかと、不審な顔で私を見た。
 その夜、私の雑のうがなぜ柵と柵の間に投げこまれ、もう少しで射殺されそうになったのか、考えてみた。戦友同士の間ではなんにも問題はない。あるとすれば、小之原対私との問題だ。小之原が私を危険視していることは、はっきりとしている。奴は懐柔策の一つとして役得のある軽症患者の管理に私をつけた。
 その仕事に就いて数日後、小之原は牛の股肉一本を独占し、部下には一片の肉さえ与えなかった。私は奴らの食缶を持ちだし、凍った糞便の上に置いた。小之原は汚いといい捨てさせた。奴はたった一回だけ食事抜きになったことを一〇回ぐらい言い募って私を叩いた。奴は懐柔策に乗らないで、反抗する私を一層危険視した。誰かに命じて私の雑のうを柵内に棄てさせたのだ。そして私が柵に近付き射殺されることを謀ったのだ。
 奴の思惑ははずれ私は射たれたが、弾はあたらなかった。確かに奴の思惑は私の口を封じてしまえば、少ない食料を独占して二四三人もの部下を飢えさせ、見殺しにしたことが隠蔽できると企んだとしか思われない。
 私には入隊前の病いの回復期に見た四つの夢のうち、すでに二つは正夢となって実現している。白人数人が会談している夢は別にして、吾家に帰りついた夢が、正夢になるのはまだこれから先のことである。どんなことをしてでも必ず生きて還るんだと、心に言いきかせた。

  六、黒パン受領使役

 土曜日に煙草の箱の大きさで、黒パンが増配されるようになった。国際赤十字社の視察団がくるという噂が、黒パンの増配になったのだろう。