海外唯一の靖国講があるブラジル

戦死した父の遺影と勲章を手に微笑む谷口さん

戦死した父の遺影と勲章を手に微笑む谷口さん

 ブラジル・サンパウロ靖国講の慰霊祭で15歳の西国山口文香さん(二世)が、英霊に「皆さん痛かったでしょう。苦しかったでしょう。ごめんね。(中略)私達は一生懸命に勉強して、世界を平和にするために努力します」と語りかけ、移民の先達にも「「皆さまは、いつどんな時でも、胸に日の丸を入れて『日本人は立派だよ』『日本人の恥になることは絶対にしないぞ』と頑張ってくださいました。おかげで今、ブラジルはもちろん世界の人たちから私たちは尊敬されています」と胸を張っていたの見て、不覚にも目頭が熱くなった▼不肖52歳、日本の戦後教育の中で育ち、1992年に渡伯したコラム子にとって、正直言って靖国神社は遠い存在だった。大学時代の恩師は、天皇陛下のことを「天ちゃん」と呼ぶバリバリの左翼インテリだった。真面目な学生だったコラム子は、敬愛する教師諸氏から教えられた通り、日本国憲法は「平和憲法」だと思っていたし、「自衛隊は違憲だ」と信じていた。だが地球の反対側にきて、〃常識〃だと信じていた様々なことがひっくり返った▼たとえば、全ての人間関係の基礎だと思っていた「性善説」は、ブラジルでは

靖国に祀られている父に祈りを捧げる谷口さん

靖国に祀られている父に祈りを捧げる谷口さん

通用しないことに驚いた。死刑がない立派な法治国家のはずなのに、裁判にもかけずに、警察が現場で犯人をバンバン撃ち殺す。日本ではお金が動いた証拠すらもないのに、政治家が口を利いた利かないだけで大騒ぎをしている。だがブラジルでは、政治家の汚職は最低でも100万レアル(約274万円)単位でボロボロでてくるし、検察から数々の証拠を並べて告訴されても「物証がない」と開き直って、平然と選挙に立候補し、しかも当選しそうな議員が多数いる。日本では親から「絶対にウソはいうな」と教え込まれてきたが、この社会ではウソの上にいかに上手に別のウソを積み重ねるかという答弁技術が問われる▼権謀術数、謀略まみれの西洋社会の一角ブラジルから東洋を眺めた時、いつしか、先の大戦で日本がしたのは侵略戦争ではなかったと思う方が現実的で、しっくりくるようになった。警察権力の名を借りて平気で一般人を射ち殺すような西洋人を相手に、戦争を出来るだけしないで済む方法を考えた時、自らが武力を持たないという選択肢はありえない。大切な家族が賊に襲われたら、命を投げ打って戦って助けるのは普通のことだ。相手が戦争を始める気を起こさせないために、武力が必要なのだ。法的にそれを可能にする憲法も必須だろう▼ならば靖国神社に祀られている人たちは日本を護った人たちであり、侵略者ではないと素直に思えるようになった。愚かなコラム子はそこまで思い至るのに半世紀近くかかったが、ブラジルには若い時分からそれを分かっている人がいる▼サンパウロ靖国講の副講元の服部リカルドさん(37、二世)にも驚いた。日本を含めても最年少の副講元かもしれない。彼は03~09年まで東京海洋大学(旧東京水産大学)の大学院で学び、現在はカンポス・ド・ジョルドンで鱒養殖の研究をしている。村崎道徳さんや小森広さん(故人)から話を聞いた後、日本に留学に行き、遊就館友の会に入って、繰り返し足を運んだという。このような世代が育つのは、今の日本では難しいのではないか▼式典後に「初めて靖国講に来た」という谷口福盛さん(84、鹿児島県)に声をかけた。谷口さんは榊を祭壇にお供えするときに、何かを手帳から出して唱えていたように見えたからだ。「オヤジが38歳の時、フィリピンで戦死したんですよ。1945年3月、あと5カ月で終戦という時でした。僕は戦前に移民していた伯父さんに呼び寄せてもらって1951年に渡伯しました。今まで仕事が忙しくて靖国講には一度も来たことがありません。ですから玉串を捧げる時に、手帳に挟んであったオヤジの写真を出して『来たよ』って報告したんです。きっと喜んでくれていると思います」。谷口さんの手には、死後叙勲された父の勲章が握られていた▼プロミッソン靖国講の中場マサ子講元からも感動的な話を聞いた。17年間も講元を任じてきた父・西国吉晴(きちはる)さんが10年前に亡くなった時、中場さんは兄弟会議を開いて「責任が重過ぎる。靖国神社に講元を返上する」と決めた。ところが、「翌朝突然、心臓がドキドキと高鳴りしはじめ、涙が止まらなくなり、死ぬんじゃないかという身体の乱調に襲われた」という。「第2次世界大戦で奇跡的な生還をした父は、多くの戦友を弔うために講元を引き受けやってきた。その想いを私が引き継がないので、父が悲しんでいるのでは」と思い至り、急きょ「やっぱり講元を引き受ける」と連絡を入れたら、スッと体の乱調が止まったという。同じころにサンパウロ靖国講でも講元だった父が亡くなり、浜口イネスさんは3年ほど悩んだ末、講元を引き受けた経緯がある。「今思えば、あの3年間は海外の靖国講はプロミッソンだけだった。続けてよかった」と中場さんは胸をなでおろした▼国を護った兵士を犯罪者扱いすることは、本来の日本人らしくない。ブラジルでは祀るべきものは、しっかり祀るという当たり前の行為が若い世代に受け継がれている。このような行事だけに、来年は総領事館からも誰か代表者が来てもいいのではないか。(深)