自分史=私のシベリア抑留記=(38)=谷口 範之

  九、病院勤務(二)

 患者用の半粥の中に二度だけ、極く少量の牛の内臓のコマ細切れが混じっていたことがあった。看護人は患者に粥だけを配り、内臓の細切れは郷土の先輩である軍曹の飯盒へ全部入れていた。軍曹は細切れの内臓とはいえ、自分だけ口にするのは気が引けるらしく、一切れづつ部下に配給した。見ていて微笑ましい光景であった。
 夜勤の食事の後、軍曹が私をよんだ。今まで一度も声をかけてきたことがなかったから、勤務の変更かと思ったら違っていた。
「チタ市から軍医殿がお出でになっている。軍医殿は退屈しておられる。何でもいいから歌を聞かせてあげてくれ。中島も来ているから二人で行ってくれ」
 と、言うことであった。奥の小部屋へ三人で入った。五十年配のよく肥えた色白の軍医が待っていた。縁なしの眼鏡がよく似合っている。
「何でもいいから、知っているのを歌ってさしあげろ」
 と、軍曹は言うけれど私は音痴である。
 軍医は
「疲れているだろうが頼む」
 中島は(旅愁)と(椰子の実)を上手に歌い、私は(日の丸行進曲)を歌ったが、調子はずれでおまけに歌詞を度忘れし、出鱈目にドラ声をはりあげた。それでも軍医は喜んでくれた。
「久し振りに日本の歌を聞いて嬉しい。ありがとう」
 と、気さくに礼を言った。町医者だったらしい風貌が滲み出ていた。そのあと、チタの様子を聞かしてくれた。
「チタのラーゲリ(収容所)も病人が多い。薬なんか無いから、助からないんだよ。せめてブドウ糖かビタミン剤の注射液でもあればなあと、いつも思うんだがね。しかしここは予想以上にひどかった。なんとかして元気付けてやりたいが、白衣と聴診器だけじゃ、どうしてやることも出来ない」
 喋っているうちに、色白の顔が赤らんできて、縁なし眼鏡の奥の眼を赤くしてなげいた。軍医は二日間の滞在で、一通り患者を診察し、
「ビタミン剤でもあればなあ」
 と、一言を置いてチタに帰った。

  一〇、病院勤務(三)

 朝の食料受領に行った当番二人が、なかなか帰ってこない。外に出てみると濃霧が立ち込めている。丘の上から下方へゆっくり流れていた。病棟の端まで行った時、霧の中から食缶を担いだ当番が現れた。
 二人とも片手にお椀を持っている。霧を利用して途中で粥を掬って食っていたのだ。普通以上に食事の量を配給され、さらに患者の食べ残しまで、さらっているくせにと思うと、腹が立った。
 病棟の横に二人を呼び、食缶を降ろせと言った。
「貴様らは毎食腹一杯食ってるくせに、患者の粥まで盗み食いするのか」
 二人とも並べて二発づつビンタを張った。今、そのことを考えると大変青くさい正義感が働いたものだが、あの時は思わず二人を殴ってしまった。