自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(45)

  一六、列車は東へ(一)

 家畜並みの身体検査は終わった。通訳が私の方のグループに告げた。
「所持品を持って、至急ここに集まって下さい」
 すぐ近くの屋根のないプラットホームに導かれた。貨物列車が停まっていた。一両に一六人づつ乗車する。貨車には一〇㎝ほどの厚さに、松葉が敷きつめられていた。薄い敷布団が等間隔に一六枚置いてある。横たわると松葉から放つ芳香が鼻をくすぐり、すこぶる寝心地が良い。
 その筈であった。戦闘中からいままでの凡そ一〇ヶ月と言うものは、大地か板が寝床であった。しかも連行時はこの貨車に七〇名余りが押し込まれ、寒さに震えて眠るどころではなかった。そんなことを思い出していると、ソ連軍の将校がやってきた。
「注意事項を伝える。昼は扉を開けたままでいいが、夕方から翌朝まで閉めて寝ること。食事は一日二回。その時間停車するから、用便などにも利用されたい。体の具合の悪いものは、給食時に中央車両の軍医に連絡するように」
 将校は各車両ごとに同じことを伝えていた。往時に比べると雲泥の差である。だがダモイ(帰国)のことも行き先も言わない。しかしこれほど掌を返したような待遇に切り替えたということは、もしかするとダモイさせるに当たって、好印象を与えようとしているのかもしれない、などと考えているうちに列車は動き出した。なるようにしかならない境遇の中で、少なくとも現在の兆候はわるくない。そう思い直して枕元においてある二個の角砂糖を口に放り込んだ、一年ぶりの甘味に陶然となった。砂糖の支給はこれが初めの終わりであった。相変わらず、これ以上は膨れないほどに膨れた米粒が、重湯の中を泳いでいる薄粥だろうなと、想像したらその通りになった。
 ここシベリアは、六月も中旬になろうとしていた。春の気配がする温かい風が、気持ちよく吹き込んでくる。午後の太陽は列車の後方にある。東に向かっていることを確認し、ようやく気持が落ち着いた。
 日本が近付いていることが、ややもすると湧いてくる不安を打消した。そして日本の土を踏むまでは、決して油断しないぞと、心に強く言い聞かした。
     

  一七、列車は東へ(二)

 列車は快調に東へ、東へと走り続ける。
 まだシベリアの中央辺りなのに、日本へ近づいていることだけで、病弱兵に活力が湧くようであった。足許が覚束なかった一人は、二日目には起き上がって扉の傍に座り、後ろへ流れる冬枯れの森林や、シベリア松の原生林を興味深そうに眺めるようなった。列車が停り食事の鐘が鳴った。箸が立たない粥を啜り終り、反対側の大平原を眺めた。
 遥か向こうに白いテントが三つ四つ張ってある。テントから上半身の男が現れた。手にコップと白い布を持っている。男はコップの水を口に含み、手に水を移して顔と首をこすって布で拭いた。次に口中の水を少しずつ手に受けては、胸腹両腕を撫で回して拭き、最後に背中に手を回して拭き終わると、大きく背伸びしてテントに入った。
 コップ一杯の水で上半身を拭った様子をみて、水が不足しているのだろうと推察した。