自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(48)

 女性ばかり四人が鉄橋に立ちはだかっている。鉄橋の修理をしているらしい。本来なら男がやる仕事を、女性の労働者が夜中にやっていた。第二次世界大戦で男手が不足したためだろうが、それにしても労働意欲の素晴らしさに感嘆した。
 翌日、海辺に到着した。ここが終点であった。プラットホームも駅舎も何もない。これから先はレールがなかった。海辺に沿って、長く伸びている低い丘には、小型の円形テントが、まるで落下傘をばら撒いたように置かれている。丘の草の緑が目にやさしかった。ここはすでに、春も終わりであった。
 一つの円形テントに四人が寝ることになった。内部は平らに整地されていて、すでに数回使用された様子である。片隅に古軍靴が、片方だけ忘れられていた。
    
 この時点ではここが何処であるか、よく分からなかった。ハバロフスクより暖かく、着の身着のままで、地面に寝るのだが、毛布一枚なのに冷え込みによる苦痛はなかった。
      
 久し振りに見る海と、潮の香りに惹かれて丘を降りた。海辺に佇んで胸一杯に空気を吸い込む。波打ち際から急に深くなっている。手を浸すと冷たい。打ち寄せるうねりが大きい。日本海だろうか。カンボーイに訊ねると、知らないといい、ダモイか?と訊ねても、知らないと頭を横に振った。本当に知らないのか、それとも上官から喋るなと命令されているのか、分からなかった。
 ハバロフスクから確かに南下しているから、沿海州の地図を思い浮かべてみると、日本海沿岸ではないかと想像される。だが確信はなかった。テントに戻る途中、年配の人に出遭った。なんとなく立ち止まって、部隊名や抑留先など話し合った。彼は湾曲している海岸線の右側の内陸部を指差していった。
「あの摺鉢を伏せた形の山が張鼓峰だよ」
 あれが張鼓峰ならば朝鮮と沿海州の国境線は、あのすぐ傍を通っている。目の前の海は日本海だった。海の向こうに日本があると思うと、矢も盾もたまらない気持に駆られ、毎日海辺に佇ちつくし、両親に思いを馳せた。
 望郷の想いが現実になるのではないかと、淡い希望が湧いてくる。しかしソ連側は帰還させるとは表明していない。あるのは大きく湾曲している海岸線だけであった。気持を引き締めて行こう。奴らは平気で人生を狂わすようなことをするんだ、と思いを新たにした。

 (註)長鼓峰は、朝鮮半島の東北端に位置し、ソ連沿海州と国境を接している。昭和一三年七月中旬、その国境線を争って、日本軍一個師団とソ連軍二個師団が、戦火を交えた。
ソ連軍は飛行機、戦車、重砲その他充分な火砲を加えた近代戦法を駆使し、日本軍は叩かれっ放しだったという。
ウラジオストックからここまでの鉄道は、新しい地図にも記載がなかった。

 来る日も来る日も、海岸に行っては佇ちつくし、飽きもせず海の彼方の日本を想 い、父母を恋い、新京駅で入隊を見送ってくれた山下春乃を偲んだ。心を揺さぶられる日々であった。
 ここに到着した翌日の食事に、桃の缶詰一缶が四人分として、デザートに配られた。一人当たり小型の桃一個分であった。桃缶の果汁は、一さじづつ回し飲みした。胃袋に染みとおるような美味しさであった。だが、箸が立たない薄粥だけの毎日には変わりはなかった。