日伯友好病院創立30周年祝う=援協の大黒柱、優良医療機関に=経済誌で全伯2位の高評価

日伯友好病院の正面玄関

日伯友好病院の正面玄関

 戦後移民が最盛期を迎えた1959年、移住者受入援護のために創設されたサンパウロ日伯援護協会(旧、日本移民援護協会)は、創立以来、その時々の社会的要請に応えながら、福祉医療部門併せて12事業所を有する日系社会最大の団体に成長してきた。その財政運営を支える大黒柱が日伯友好病院だ。現在では当地でも指折りの医療機関として知られるまでになった同病院だが、建設期には日系社会上げての募金活動、拡大期にあっては私財を投げ打って援助した故・神内良一氏の存在など、その発展の背後には裏方的な貢献や協力が隠されていた。

挨拶する神内良一氏

挨拶する神内良一氏

▼「救急病院」から「総合病院」へ

 同病院の前身となったのは、1963年に創設された診療所だった。当時、まだ文協ビルに本部を構えていた時代だ。日本語で相談できる診療所とあって、他州の日系人まで訪れるようになり、開設後すぐに手狭に感じるようになった。
 診療所の拡充とともに、〃日系人のための病院〃が日系社会から熱望されることになった。というのも、日本病院(現サンタクルス病院)が戦時中に連邦政府の管理下に置かれて以来、当時は日系社会から離れており、気軽に通える「自前の病院」がなかったためだ。
 こうした背景から、JAMIC(移殖民有限責任会社)、JEMIS(金融信用会社)の工業移住センターの払い下げを受け、85年5月に入院治療ができる「援協救急医療センター」として産声を上げる。救急病院は、将来の総合病院の一部を形成するものと位置づけられ、総合病院運営に向けた足掛かりとなったのだった。
 そして、同年6月、援協日本病院建設委員会がいよいよ発足する。委員会には日本政府関係者から、日系社会の指導者や組織を総動員した総勢925人が参加し、総合病院建設計画が組まれることになった。

▼日系社会上げての募金運動

 工事は二期に分かれ、地下1階から地上6階建ての120病床となる計画で、建物と医療機器を合わせ13億3080万円の巨大な予算額が組まれた。資金調達にあたっては、日本政府からの大型援助のみならず、日系社会を挙げて大規模な募金活動が展開された。
 日系社会の募金は着工前の85年10月から始まり、協力券5万枚が販売され、20億クルゼイロスが集まった。「協力券」とはいうものの何の懸賞もない事実上の寄付だった。
 86年1月から活動が本格化すると、南米銀行グループが25億クルゼイロスという超怒級の大型寄付を発表。続けて、コチア産業組合、スール・ブラジル農産組合が、各々10億クルゼイロスを寄付した。
 なかでも、当時、個人・法人寄付額の中で日系社会最高額となったのが、故・宝田豊造さんの金塊14キロ425グラム(1400万クルザード)だった。
 宝田さんは歯科医療機器の営業員を続け、サンパウロ市ブラス区の一部屋の借家住まい。家には電話もおかず、生涯独身で清貧に甘んじ、貯蓄を重ねてきた。質素な服装で手提げ鞄に金塊14キロ以上を抱えて援護に持ち込み、応対した役員を驚かせたという逸話もある。

▼礼宮殿下を迎えて友好病院が落成

礼宮殿下とサルネイ大統領を迎えて落成した日伯友好病院

礼宮殿下とサルネイ大統領を迎えて落成した日伯友好病院

 こうした各方面からの協力を得て、募金開始から10カ月目には第一期目標額に到達した。日系社会の盛り上がりと対照的に、猛インフレによる経済先行きが予断を許さない状況下にあったため、募金活動、第二期工事も続行。移民80周年の記念事業の一つとして、全館完成が目指されることになった。
 こうして、88年6月18日の移民の日にあわせ、落成式が盛大に執り行われた。式典には、礼宮殿下(現、秋篠宮文仁殿下)、ジョゼ・サルネイ大統領、ウリセス・ギマランエス制憲議会議長、アルミール・パジアノット労働大臣、福田赳夫元首相、田中龍夫元文相など、日伯両国の政府高官がハイレベルに会することとなった。
 開院式は9月17日に実施されたが、資金不足により設備は万全とは言い難い状態だった。当初予定されていた120床が整わず、30床から同院はスタートした。

▼神内氏の巨額支援で拡張、発展

 落成式の後、病院建設に協力した関係者に答礼のため、当時の竹中正会長らが同年10月に訪日していた。そこでは、今後の病院経営に対する理解を求めるとともに、不足している医療機器等の支援要請を行うことも目的であった。
 そして、そこで出会ったのが、プロミス株式会社の社長で、後の公益財団法人日本国際協力財団の神内良一理事長だった。
 援協からの要請を受けた神内理事長は、同院や援協傘下の福祉施設の視察を兼ね、同年12月に来伯。当時、同院4階の産婦人科、5階の小児科は未開業のままで、医療機器も明らかに不足している状況だった。
 現状を目の当たりにし、支援の必要性を痛感した神内理事長は、矢継ぎ早に7550万円の支援を決定。これにより医療機器が整えられてからは、来院者が倍増。90年迄には赤字経営から脱し、たちどころに満床となり、長期待機を強いるまでになった。
 そこで持ち上がったのが、地下2階、地上7階の110床を有する新病棟建設計画だった。建設案説明と支援を要請するため、93年に当時の原沢和夫会長らが訪日すると、神内理事長は4億5千万円の寄付を快諾。97年4月に開院し、この増築部分は、長年に及ぶ多額の寄付を行ってきた神内理事長を顕彰し、「神内病棟(ALA・R・JINNAI)」と名付けられた。
 その後も神内理事長は総合医療検査センターの開設に1億円を援助。援協傘下の施設を全て含めると、その援助総額は約11億円にも上るといい、援協の発展を支えた大恩人といえる存在だ。

22日の30周年式典で挨拶する与儀会長

22日の30周年式典で挨拶する与儀会長

▼ブラジル屈指の病院に

 病院建設以前から、世界最新鋭の設備を備えたブラジル病院界のリーダーを目指し、日系医師の人材育成というと遠大な目標を掲げてきた同院は、今まさにそれが現実のもとのなっている。
 13年にはブラジル優良病院認定協会「ONA」からサービスの品質と安全面での最高認定を取得し、現在も維持。17年8月には、ブラジル国内企業の総合評価と25分野の総合的評価を毎年実施している経済誌「ヴァロール・エコノミコ」から、医療分野では第2位の高い評価を受けるなど、模範的な病院の一つとして知られるまでになっている。

建設中の神内病棟

建設中の神内病棟

神内病棟の威容

神内病棟の威容