自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(55)

 先日の薪採りで推測した通りであった。噂では五千人は収容されていると言うことであったが、噂ほど当てにならないものはない。
 見習い士官の服装をした青年がでてきた。
「ソ連軍の命令により、一日当たり二コ分隊の人員で、鉱石採取の応援をすることになりました。右翼の列から三〇人編成をし、今日から作業に行きます」
 みんな騒然となった。
「俺たちは病弱者なんだ。鉱石採取のような重労働をさせて、殺すつもりか」
 と、見習い士官につめ寄った。
 彼は自分の手に負えないと判断したらしく、中年の将校服の男を呼んできた。階級章をつけていない。
「泣く子と地頭には勝てないという諺がある。ソ連軍の命令なんだ。運動のつもりで適当に体を動かし、ノルマなんか考えなくていい。頼むから作業に出てくれ」
 彼はそう言って、みんなを静かにさせた。
 初日は最右翼に整列していた私たちに当たった。私と仲間の三人は、真っ先に炊事当番を志願した。鉱石採取なんか真っ平ごめんだと相談したのである。米と馬糧用でないトウモロコシの入った袋と、少々の塩を持ち正門のすぐ近くの鉱山に登った。炊事小屋は山の中程の路傍にあった。隙間をあけて、丸太を立て並べただけで、屋根は瓦葺きである。石を積んだカマドの上に、大きな平釜がのせてある。早速米とトウモロコシを平釜に放り込み、適当に水を注いで準備は出来た。
 私たちは以心伝心、自分たちの飯盒に米と水を入れて火に掛けた。やがて飯盒から吹きこぼれる重湯の匂いに母の面影を感じ、強い郷愁をそそられた。
 炊きあがった熱い飯に塩をふりかけて、かき混ぜる。フウフウと息を吹きながら、口に運ぶ。うまい、うまいを連発しながら私たち三人は貪り食った。ほぼ一年振りの米飯であった。
        
 昨年八月六日までの約一ヶ月、私たち候補生は、免渡河駐屯地での集合教育中、普通食を給与されていた。七日に築城工事中の原隊に復帰して驚いた。重労働の人夫仕事なのに粥食と味噌汁だけの食事である。その粥も、金属製のお椀に一杯だけ。体力を消耗するばかりで、いざ開戦となれば役に立たないだろう。古年兵の言葉を借りると次のようになる。
=師団本部は進入するソ連軍を、数年間喰い止める作戦だから、今節米して迎撃戦に備えるということだ=
 その結果体力が衰えたままシベリアに連行され、真っ先に応召兵が斃れ、続いて初年兵が多く死んでいった。節約した食料は、味方の兵の役にはたたなくてソ連兵のお役にたった。そんなことを思い出しているうちに、平釜の飯ができあがった。作業場からぞろぞろと昼飯にやってきた。差し出す飯盒に、片っ端から熱い飯を、しっかりよそっては渡す。後ろに並んだ者の分が、足りなくなりはしないかと心配した。よくしたもので、思いきって飯をよそってよかった。充分に行き渡ったのだ。
 勿論私たちの分は、みんなと同じ配分である。飯盒二杯分をたっぷり食って、久し振りに満腹した。片付けが終わって、仲間の一人がポケットに隠し持っていたトウモロコシを、残り火に掛けて炒った。香ばしい匂いに誘われて、つい手を出しボリボリ齧った。