自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(57)

 私はすでに正夢を体験している。あの夢の続きの最後は、わが家に帰えりついて父母にあっている。だから帰還は実現するはずである。死ぬはずはないと強く自分に言い聞かした。
 下痢は一日一回程度におさまった。腹痛は全くなくなり、軟便になった日に、元の宿舎へ独断で帰った。

  一〇、林田さんと遭う
 
 病舎へ行く前の宿舎に戻ってみると、顔触れが半分以上も変わっていた。そこで知的な風貌の、四五歳の人の隣に席を取った。彼は古年兵ではなかった。思ったとおり、七月に動員された根こそぎ都市防衛召集を受け、間もなく終戦、そしてシベリア抑留で不運を絵に書いたような持ち主であった。
 それにしても四五歳で召集され、今迄よく持ちこたえたのは、奇跡に近いと感嘆した。私とは親子ほど歳の差がある。かれは満州鉄道K・K、私は満州電信電話K・Kに勤めていたから、親しく話し合うようになった。彼は沸かし冷ましの水だけ飲んで、粥には手をつけなかった。
「食べるとすぐに下げるんだよ。そのたびに腹が痛むんでね。食欲は全然ないんだ」
 と、弱々しく語った。そう長くはない様子が感じられた。
 「僕が君より先に帰ったら、君のご両親にここで会ったことを伝えよう。もし君が先に帰った、僕の家族に、有りのままを伝えてくれないか。家内は娘と息子を連れて五月に帰国しているんだ」
 お互いに住所を交換した。なんと、隣町同士であった。矢内原忠雄の講演を、二人とも聞いていた。その『歴史と人間』と言う講演の主題、=人間が歴史を作り、その歴史によって、人間が作られてゆく。そして正義は、紆余曲折しながら、常に正しい方向を辿る=
 を語り合った。というより、彼の解説を聞いて感銘した。
「君はー」
 と、父親のような眼差しを向けて、
「捕虜という最悪の条件下で、一年を過ごしてきた。これは一つの歴史的過程だ。これによって君と言う人間がつくられていることは事実だ。問題は正常な社会に復帰した時、この歪められた過程が、君の人生を狂わさないようにいつも自分を客観視することだね」
 最悪の条件下でこのような形而上的会話を交したのは、後にも先にも林田さんとだけであった。思い出すたびに、清々しい気持が甦る。その後、私は伐採に応募し、収容所から一日行程の山地へ行き、一週間のちに戻った。
 林田さんは病棟へ収容されていた。私が入っていた病舎とは違い、大きな建物であった。面会に行くと門衛がいて拒否した。明言は避けたが、伝染病の隔離病棟のようであった。
 数日後、行き先不明ながらここから出発することになり、再び面会に行ったが、やっぱり出来なかった。帰還後、彼の家族に会い、約束を果たした。その後、林田さんの死亡が確認されたと、家族の方から知らせが来た。

  一一、再び伐採

 山間の、日盛りの蒸し暑さは格別であった。伐採要員の募集が行われ、忽ち三〇名が名乗りを上げ、私も応じた。モルドイ村のラーゲリから行った伐採が好条件であったから、そのことを想像して応募したが、柳の下に泥鰌は二匹いなかった。