自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(65)

 どのくらい貨車に揺られていただろうか。大きな駅に着き貨車から降りた。元山である。また一歩日本が近くになった。元山まで来ていることは、確かに帰還することに間違いないはずだが、一度思いきりよく騙されているから帰還船に乗るまでは安心できない。  
 ソ連のことだから何時豹変するか分からない。

  二〇、日本窒素KKの独身寮へ

 寒さにふるえながら雪を踏みしめて、元日本窒素KKの社宅街に入った。一斑一〇名毎に一部屋づつ宛がわれた棟は、独身寮だった。部屋の扉はなく、扉代わりに麻袋を解いたものがぶら下げてあった。畳はなく床板が寒々と迎えてくれた。が、驚いたことに窓際の蒸気スチームが通っていた。一〇人が躯を寄せ合えばスチームのお陰で、厳寒はなんなく凌げる。この部屋の班長格は、免渡河の駐屯地で支那戦線から降格され、私たちの内務班に転属してきたあの東義秀さんである。またモルドイのラーゲリから伐採に赴いた時の班長保坂さんも同じ班になっていた。
 この二人は病弱兵ではなかったから、私がモルドイ村のラーゲリを出たときは残っていたはずだが、北朝鮮の三合里に来たときは一緒だった。それから私は病舎に入り、彼等二人とは離れてしまった。元山に来てどうした加減か、また東さん、保坂さんと同じ班になった。
 東さんは、転属して来た当時の、班長を班長と思わないような厳とした様子は消えて、普通の人に様変わりしていた。保坂さんは全く変らなくて、温和そのものであった。
     
 ここで忘れ得ない、東義秀さんについて、記憶していることを記しておきたい。
 先程彼について少し触れたように北支戦線から私たちの班に転属してきたのは、四五年五月のことだった。朝の点呼後、彼はふいにやってきた。内務班に入り班長に向かって、堂々と転属の申告をした。髭面で小柄、私とあまり変わらない。
 班長はなぜか遠慮している様子でよろしく頼む、というようなことをボソボソ言った。班長は伍長、東さんは上等兵である。なのに班長は彼に対して先輩をたてる風である。
 しばらくして、東さんは支那戦線で何事かがあり、降格されたらしいという噂が流れた。八年兵だそうだ。食事の時、班長は窓際のテーブルの端に座り、班員は長テーブルの両側に腰をかける。班長が箸を取り一口食べるのを待って、班員は食べはじめるのが慣例になっていた。
 当番は何時も通り、班長へ真っ先に膳を持ってゆく。班長は当番に何事か耳打ちした。二番目に東上等兵に膳を差し出した。彼はテーブルに着かないで自分の寝台にドッカと座り、差し出された膳を受け取るとすぐに食べ始めたのである。班長など眼中にない態度である。
 乙幹から伍長になったばかりの見習い班長は、彼を上等兵殿と殿をつけて呼び、私たちは唖然となった。階級秩序の厳しい軍隊内で、在隊年数が階級差を超えることがあると知り、妙な思いにとらわれた。話題の多い東上等兵殿であったが、在隊時は雲の上の人であった。だから口をきくことはなかった。
 北朝鮮にきて、三合里、元山で一緒に寝起きしていると、意外にも好人物で同じ内務班にいたことも話の種になり、いい友人関係を保った。