セアーザ今昔物語=ほとんど全員日本人だった=(3)=苦労した分、子弟を教育

古賀さん(右)と長女のミシェルさん

古賀さん(右)と長女のミシェルさん

 古賀オズワルドさんはセアーザで深夜0時から正午まで働いた。夕方から夜にかけて睡眠を取る生活をしていたため、娘3人とはほとんど顔を合せなかった。
 ただ、「自分が医者の夢を諦めた分、子供たちには勉強は好きなだけやってほしい」と考え、教育にかける費用は惜しまなかった。
 大学で化学を専攻した長女のミシェルさん(28、3世)は古賀さんと一緒に働いていて、ゆくゆくは後を継ぐつもりだ。ミシェルさんは「父はとても忙しくて私が初めて遠出をしたのは7歳のときだった。正直、父のことをよく知らずあまり好きではなかった」と笑いながら言う。
 「でも今は仕事の大変さがわかるし尊敬している。大学で学んだことを活かして働く道もあったけど、祖父の代から続いてきた店を残すのは大切なことだと思った」と話した。
 話を照れくさそうに聞いていた古賀さんは「とても嬉しい」としつつ、「ここの仕事は金銭トラブルも多く心配だ」と言う。古賀さんも新垣さんと同様に不渡りに苦しめられた。ごくたまに代金を支払えない代わりに土地などの資産を譲渡されることもあったが、ほとんどの場合、売上金を回収できないまま泣き寝入りしたという。
 古賀さんは「大学ではそういうことを教えてくれないからね。他の仕事に就くほうが娘にとって幸せかもしれないとも思う。ただ、娘がやる気なら苦労はあるだろうけど一緒に頑張りたい」と話した。
 新垣さんや古賀さんのように日系人の親は子供を熱心に教育した。サンパウロ人文科学研究所顧問だった宮尾進氏による2014年の調査では、90年にはブラジルの最高学府であるサンパウロ州立総合大学の生徒のうち18%が日系人だったとされている。大学を卒業した子供の多くは親の仕事を継がず別の仕事に就くため、ミシェルさんのケースは珍しい。
 さらに、セアーザでは90年代のデカセギブームで日本に行く増え、日系人が相次いで店を畳んだ。今は場内を歩いてもほとんど日系人を見かけなくなった。
 セアーザを開場時から知る新垣さんは、今年中に店を畳む予定だという。日本語が飛び交っていた往年の様子を知るひとが去ることは、セアーザの移り変わりを象徴的に表している。(終わり、山縣陸人記者)