自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(67)

「先程の質問にたいしては、資料がなくて答えられない。しかし増産態勢にあることは確実である。明日要求にあった鉛筆とノートを用意する」
 上級将校は鮮やかな日本語で説明し、私に向かって微笑して去った。翌日、一本を三分の一に切った鉛筆と、ザラ紙半分が各自に支給された。
 あの時深い考えがあって質問したわけではなかった。国民の需要を満たしているか、どうかを知りたいと咄嗟に思いつき、質問しているうちに鉛筆とノートの支給に口が滑った。需要と供給の具体的な数字を挙げないで、××の生産は××%増産したとだけの発表では、生産量が需要に満ちているのか、足りないのか不明である。この発表の方法に数字の魔術ー一種の騙しを見せ付けられたわけで、ソ連という国の内情を垣間見た思いがした。
 一週間近い共産主義に関する講義であったが、結果的にこの主義思想を受け入れることはできなかった。憲法で言う揺りかごから墓場までのバラ色の人生は、これまで見てきた現実と全くかけ離れていたからである。

  二二、ソ同盟萬歳、スターリン萬歳を拒否
 
 寒気は次第に厳しくなり、部屋の扉替りに吊るしてある麻袋に、室内の水分が白く厚く凍りついていた。作業も点呼もなく、なんとなく帰国の日が近くなった気配は、日毎に濃くなる感じであった。しかし誰にもその確信はなかった。もしかすると、体力の回復を待って再びシベリアへ帰すのではないかと言う不安が頭を持ち上げる。
 毎日の食事は朝夕二回確実に宛がわれた。飯盒四分目の薄粥と、赤色に染まった親指の太さほどの細い白菜のキムチである。ないよりましであるがこんな食物では体力の回復は覚束かない。生かず殺さずの待遇だから体力は自然減少するだけだ。
 十二月二七日、昨夜来ちらついていた雪が止んだ。突然、広場に集合が命じられ、雪を踏んで集合した捕虜で、広場は溢れるばかりになった。
 壇上にソ連将校が上がった。
「諸君は明日日本に向って乗船し、出航することになった。港にはすでに第一船が入港し、諸君の乗船を待っている。明朝、この広場で司令官の挨拶がある。その後でソ同盟萬歳とスターリン萬歳を三唱する。只今その予行演習をする。私が音頭をとる」 
 周囲の列は、喜びに満ちて萬歳を三唱していた。私たちの班は前もって相談したわけでもなく、誰かに指示されたわけでもないのに万歳の唱和も手も挙げなかった。
 言語に絶する苦痛を与え、多くの戦友を死に追いやっていながら、哀悼の意を表明もしないでソ同盟とスターリン萬歳なんぞ出来るかと、激しい憤りに身をふるわしていた。後で聞いたのだが、他の数班も唱和と萬歳に見向きもしなかったという。その夜、ソ連軍の将校が来て言った。
「君たちの気持は分かる。しかし萬歳を唱えるだけで、日本の土が踏めるんだよ。もちろん自分たちの任務も落ち度なく終わる。あくまで拒むのであれば君たちはいつまでも、ダモイ(帰国)できなくなるかもしれない。我々を助けると思って頼みを聞いてくれないか」