自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(70)

 夕方握り飯を二個支給され、隊列を組んで緩い坂を上がったところに駅があった。ここで東さんと惜別する。彼は別の車輌に乗車することになったのだ。一旦田舎の父母の下に帰り、善後策を考えるということだった。
 保坂さんと戦友二人の四人が、向かい合って腰をかけた。鳥栖駅で愛国婦人会の襷をかけたご婦人たちから、ご苦労様でした。ご無事のご帰還おめでとうございます、と声をかけて頂き、熱いお茶の接待を受けた。ここでも胸に熱いものがこみあげてきた。
 下関を過ぎる頃から列車内は一般客に入れ替わって、車内の復員兵はまばらになった。朝日が昇った頃、岩国駅に着く。車内では気持が昂ぶって、一睡もできなかった。プラットホームに駅弁売りの声が響いた。各人一個づつ求め、値段を尋ねると一二〇円という。
 あまりの高値に驚いたが、空腹には勝てなかった。初めてインフレとはこのことかと実感した。弁当一個の値段が、入営前の給料の二倍半とは、想像すらできない現象だった。
 列車は宮島口を過ぎ、廿日市駅、五日市駅と各駅停車しながら故郷西広島駅に着く。食い入るように見つめる瞳に、なつかしい己斐の町並みが映る。壁が抜け落ちたままの住宅が、散見されるものの南風崎で聞いた惨状は見当たらない。
 しかし、遂に来なかった両親からの返信電報を思うと、停車した駅への下車がためらわれた。迷っているうちに発車した。中隊こそ違っていたが、戦闘、抑留を通じて生死を共にした保坂さんが、
「よかったら茨城の俺のところに来ないか。それから落ち着いて両親の安否を確かめることもできるよ。百姓だが落花生なんかよくできるんだ」
 と、いってくれた。
 横川駅を過ぎ、広島駅に着いた。そこでやっと、決心がついた。
 「保坂さん、いろいろと世話になったな。両親が死んでいたら供養を済まして、あんたを尋ねていくよ。元気でな」
 そう言いい終わって降りた時、発車ベルがなりひびいた。市内電車に乗る。乗客の服装など見渡したが、戦前のおぼえている様子とかわらないようだ。傍の乗客が数人、私からさりげなく離れた。着衣にしみ付いた異臭のせいらしい。無理もない。二年も洗濯しなかったのだから耐え難い悪臭に違いない。離れた人たちを咎める気持にもなれなかった。
 終点己斐駅に着いた。駅付近から観光道路あたりは凄い群集である。群集を抜け出し、観光橋を渡ると、下り坂が終わる左側に、出征前の我が家が見えた。遠目に様子が変わっている。夢中で歩いて来たので周囲の家並みは目に入らなかった。その時初めて落ち着いて辺りを見回した。出征した時のままのたたずまいがあった。
 我が家は気の効いた喫茶店に様変わりしていた。扉を押して中に入ると、見知らぬ男が出てきた。心を落ち着けて訊ねた。
「ああ、年寄り夫婦はあの小路を入った辺りに引っ越して行ったよ。この家は半分壊れて住めなくなっていたからねえ」
 両親の引越し先はすぐに捜し当てた。小さな家だった。昂ぶる気持を押え玄関口にたった。錠がかかっている。