臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳=(4)

 自分が誇らしく思えた。つり合いがとれていた。西洋スタイルの晴れ着、そして、遠い西洋の輝かしき日…。
 それは1918年7月17日、木曜日の朝、9時半過ぎのことだった。
「ディカ、セイコウ!(正輝! 急げ)」
 新世界を頭のなかで描いていたやさき、ふだん使っていた沖縄弁の樽叔父の聞きなれた声で、現実によびもどされた。セイコウは家族のなかで使われるいくつかの呼び名のひとつだった。戸籍にはマサテルは正輝と書かれていた。
 この漢字はセイコウとも読め、故郷ではよくある名前のひとつだった。
 ところが、旅券の日本語のページにもフランス語や英語のページにもそう書かれていない。沖縄では女でも男でもよく使われる牛という名が記されていた。が、これは彼の名前ではない。日本の書類係の手違いで、叔母の名が記入されてしまったのだ。

 マサテル・セイコウ・牛は、こうして長い間自分が寝泊りました場所にさよならをしなかった。それだけの価値などなかった。けれど、この場所のことは一生わすれないだろうと思った。あの鼻をつくコーヒー豆の臭い、重なり合うように寝泊りした人間の体臭、大勢の仲間が保存食として日本からもってきた漬物の臭い、それらがごちゃ混ぜになって鼻の奥からはなれていくことはなかった。
 自分の荷物を抱えると、書類上の責任者である叔父の指示にしたがい、桟橋に向ってタラップを降りはじめた。足をひきしめ、ひきしめ降りたが、陸地に足がついたときにはすくっと立ち上がり、「これでおさらば」とばかり貨物船若狭丸の甲板を侮蔑するように見上げた。ののしってやりたかったほどだ。
 そのあとにわかに設けられた移民受け入れ手続き場に向けて、しっかりした足取りで歩いていった。サントスの地を踏んだと実感したとき、「着いたぞ!」と心のうちで叫んでいた。新しい夢の人生を開始するために、当然、払わねばならない代償なのだと聞かされ、がまんにがまんをかさねた悪夢のような日々に終止符を打った。彼はそう信じた。これからさらにいろいろ面倒なことがはじまろうとしているなど、夢にも思わなかった。

 いま足を踏みだしたこの国は移民を必要としていた。とくに、サンパウロ州はコーヒー栽培がさかんで、外国人の労働力を必要としていたので、コーヒー園には十分とはいえないまでも、うけ入れ体制はできていた。
 一方、当時サントスでは州政府の対策はおざなりで、しっかり機能していなかった。港で働く係員は指で数えられるほど少数で、それぞれの机で移民の入国手続きをした。彼らは清潔ではあったが、服装からコーヒー豆の臭いがした。
 下船する外国人が300、いや400人ぐらいだったら、係員たちは予定時間内で下船者全員を処理できただろう。しかし、その任務は下船した人間すべての旅券をひらき、記載されていることを確かめるという厄介なものだった。
 一ページ目はまったく理解不可能な日本語で書かれていたが、さいわいにも二ページ目は当地の役人たちのためにフランス語で書かれていた。当時、官僚間の公用語はフランス語だったためである。そして、次ぎのページは英語で書かれていた。