臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(9)

 回答はシンプルだった。若狭丸は神戸を出てからシンガポールまで一路つねに南西に向った。マレーシア岬やシンガポールの間をさえぎるスマトラ島を迂回するため、船は方向を南東にむけ、そのままジャワ海、ジャワ島をめざして航海していた。赤道を通過したという知らせが、乗客にもたらされたのはもう夜だった。航海の習慣になっている赤道祭などの祝いごとはいっさいなかった。先日の脳膜炎で多数の死亡者がでたことで、みんな打ち沈んでいて、催しごとができる状況ではなかったのだ。
 スマトラ島南端とジャワ島に到達したとき、スダン海峡を通過するため船はまた南西にむけ航路を変えた。インドネシアという国はスマトラ島、ジャワ島の二つの大きな島と多くの小さな島からなっていた。海峡を通り越した若狭丸はインド洋にで、西に舵をとり、船の北側をとおる赤道に平衡してアフリカ大陸にむかった。
 船旅がどんなに単調だったか。インドネシアからアフリカに向う間ほど退屈したことはない。何日も、何週間もまったく陸が見えなかったのだから…マダガスカルと南アフリカの間のモサンビーク海峡に入ると、南方に舵をとり、ようやく船は大陸に近寄った。若狭丸は次に希望岬を回り、大西洋に出て、西へ西へと進んだ。その間、台風にあったが、そのころには大した災いでもないと正輝には感じられた。むしろ、退屈しのぎには最高だと思ったくらいだ。

 ようやく若狭丸はサントスに錨をおろした。
 下船の許可が下りるまで、乗客は何時間か待たされた。ブラジルに着く少しまえ、また、何人かの乗客に病気が発生し、早急の手当てが必要となっていた。病人は一般乗客よりさきに下船する。衛生局は新しい患者が現れないか、また、乗客が下船したあと、町に病気が広まらないか確かめる必要があったのだ。

「昨日、病人として下船しサンタカーザ病院に入院した者は七名、男性一人、女性六人。うち二人の女性は昨夜死亡した。また、一名が危篤状態にある」
 1918年7月20日(土)のサンパウロ州(O Estado de Sao Paulo)新聞が、このように二日前、サントスから入った電報を伝えているが、その19日の電報をもとに、21日の記事の追加事項として、
「昨日についで、本日サントスからつぎのような状況が伝えられた。寄港中の船内で、二人の未成年者が死亡、さらにサンタカーザ病院に入院中だった既婚女性一人も死亡した。外間カナさん18歳、死因は食中毒によるもの」と伝えた。
 脳膜炎で多くの犠牲者をだした若狭丸が、今度は船内の不衛生な食べ物による食中毒をまき起こしたのだった。

 神戸から出発した1800人、いや正確には1796人のうち1740人、いや1736人を、ブラジル政府の公務員はたった10人で、入国手続きをしなければならないことになる。正輝と叔父たちは長時間順番をまつしかなかった。そして、手続きがおわってからも、関係者の机の後ろに回って、ほかの人たちの手続きが終るのを待たなければならなかった。なぜなら、全員がそろってから、はじめてサンパウロ高原に向う列車にのることになっていたからだ。
 入国手続きを早くすませた者たちのなかには、冒険心を起こし港近くの町中にくりだした者もいて、地元住民の興味をそそった。