臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(13)

 マサユキは沖縄滞在中、近親の大学卒の者たちが尚巴志王時代までさかのぼって、家族の先祖について調査したことがあるときかされた。尚巴志王は1429年、島を三分していた王国を統一し、琉球王国の最初の王となり、1439年まで統治した。17世紀に70~80年間の空白期間があるのだが、それは保久原の苗字を否定したり調査を無効にする材料にはならず、より以上の尊厳をあたえることになった。
 ところが、特殊であったはずの家族の運命は、沖縄人一般と同じになってしまった。過激な変化だったといえる。いちじるしく生活水準が落下し、しかも、それは短期間に起こってしまったために、一族はまたたく間に貧困のどん底に落とされ、生きるために土地を分割したり、手放したりしなければならなかった。所有していた財産でただひとつだけ残されたのは、昇の持家だけだった。
 その後、昇は自力ではい上がった。それも第二次世界大戦(特に、新城がある島尻地方は島でも流血の激しかったところだ)が終ってからずいぶん経ってのち、将来性のない農業をすて、都市で働くようになってからだ。
 先祖が所有した財産、生活習慣は家督をついだ先祖により、昇やマサユキの父親に安定した道を切り開いてくれたかもしれない。しかし、哲夫、正輝兄弟(家ではたろう、せいこうと呼ばれていた)はたった13年あまりしかいっしょに暮らせなかった。彼らの親は沖縄で二人を養うだけの経済的ゆとりがなかったのだ。結局、弟で、まだほんの子どもの正輝が地球の反対側で生きることになってしまった。苦しい生活の中、そして通信事情の悪かったあの時代、一生の間、手紙を通して忌事や慶事、結婚、子どもの誕生といったお互いの消息を知らせあうことになったのだった。

 新城でのいとこ同士の出会いは、家族が別離をよぎなくされたその原因をつきとめたいという点で意気投合した。二人は感動をかくしきれず、出会いの喜びをかみしめながらそれに向き合っていた。これまでの60~70年の間に積み重ねられてきたもの、そして、崩壊されてしまったことを思い返してもいた。
 双方の親から聞かされてきた共通点をさぐりあて、親近感をさらに深めていった。まるで兄弟になったように感じられたのだから、結果はすばらしかったというべきだろう。親たちから聞き、まだ頭に記憶されている断片がつなぎ合わされて、互いの家族の歴史が分りはじめた。けれども、一族の歴史をいま一度思い起こすことは、ましてや、それを書き記すことなど、至難の業である。
 その経緯の大部分は、しかもいちばん大切な部分は、是非はともかく、マサユキや昇の先祖によるものというより、正輝が自分の道を歩もうと後にした当時の日本の、とくに沖縄の状況が大きく影響しているからである。

 ふる里での正輝は、変革を迫られた沖縄の歴史にふり回されたといえる。
 一族の歴史はふるさとの島がたどった歴史そのものである。それが不運であれ、まれに得た幸運であれ、粉々になった断片をひろい集め再生してみなければならない。
 もともと、正輝をはじめ両親、伯父や叔父、新城、そして、全沖縄の住民はすべて日本国民だったのだ。