臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(14)

 公用語は日本語で話すことが義務づけられていたし、教育も東京の中央政府から日本全土に発せられる教育方針にのっとった指導を受けていた。教理に従い天皇を崇拝した。忠道は沖縄の独自性(アイデンティティー)が失われることによりも、鹿児島県知事に従わなければならないことで「いまさら、なぜ、鹿児島県なのだ?」と嫌悪感をしめした。
 とくにサツマイモ(薩摩芋)が日本列島に導入された経緯が、彼をいらだたせていた。サツマイモは1605年、中国の富貴苑省から沖縄人が手に入れもってきたものだ。10年間、沖縄の気候に順応されたものを、薩摩(現在の鹿児島)の船員たちがもちさり、後に日本中に広まったものなのだ。忠道は怒った。
「なんと、その芋はサツマイモという名でナ。そんな名前までつけてオレたちの芋をかっぱらったんだ」
 忠道は自分が知っていることを伝え、その怒りを息子たちにも植えつけた。だからといって、正輝にしろ、父親にしろ、沖縄の過去を知悉しているわけではなかった。当時はまだそんな話題が公に顔を出すこともなく、特殊な沖縄の歴史はただ口から口へ伝承されていたにすぎない。

 アメリカの歴史学者ジョージ・カーは琉球列島(沖縄はこの列島で最も大きく重要な島)について、
「自然はこの島々にとって決して寛大ではなかった」
と書き、「島に近寄りがたくしているサンゴ礁と、けわしい岩だらけの山々がつらなる日本本土と台湾の間によこたわる島だ」と記述している。
 島の人間はやせ地で、しかも、定期的におそう暴風雨や台風から身を守らなければならず苦労した。近年の統計によると、沖縄海域は年間少なくとも12回、多いときには44回も台風に襲われているという。時速270キロに及ぶこともあるそうだ。
 しかし何世紀にもわたり、沖縄の大敵は自然現象だけで、住民は平和をこのみ友好を欲した。第二尚氏王統、尚真(1477─1526 第一尚氏王、尚巴志の子孫ではない)の時代に島民は武器をすてた。「島を外部の攻撃から守るためにのみにつかう」という王命で、族長とその家臣の剣と弓矢は王宮に納められたのだ。もっとも、武器を使うような危険など何もなかったのであるが。

 他方、沖縄は長期にわたり、大陸の中国に貢物をおくっていた。島が三つの王国(南山、中山、北山)に分かれていた時代も、君主たちは王の交替を明国に伝え、認証してもらうために使節をつかわし、使節団は自分たちは明国に属する国だという姿勢をしめそうと高価な貢物をおくったのだ。これは進貢貿易とよばれるのだが、のちには朝鮮や東南アジアとの貿易も開拓される。こうして三山の王たちは貿易を通して武力と経済力を強めていった。
 そのうち南山系の尚巴志が沖縄を統一するのだが、七代目の尚徳が病死すると、家臣の金丸によって政権を奪われ、第一尚氏王朝時代はおわり、尚円と名を変えた金丸の第二尚氏王朝がはじまり、三代目の尚真時代には黄金時代を迎える。